『物質と記憶』(第18回)

物質と記憶』第三章の残り五節を読んだ。
生命体の感覚=運動的基体をなす知覚の平面と記憶の逆円錐。
本性上異なるこれら二つのものがただ一点で交わり、記憶はそこで現実と接触する。
たんに「演ぜられる」心理的生活(知覚の平面S)ともっぱら「夢みられ」てだけいるようなそれ(記憶力の基底=円錐の底面AB)。
この二つの極限状態の間を動いて、かわるがわる中間的断面にあらわされる位置をとる通常の心理的生活(A'B',A''B'',……)。
本書183頁に示されたこの高名な図を念頭におけば、ここでのベルクソンの叙述はいささかの抵抗もなくすんなりと頭に入ってくる。
知覚の平面で経験される「感ぜられ、生きられる類似」(181頁)が「精神の工作」(185頁)を経て、それ自体で自足している記憶心象・独立的イマージュを産み出す。
まず記憶力のはたらきが類似の布地の上に差異の多様性を刺繍し、個を弁別する。
次いで悟性が全体から部分への解体作業を進め、類を構築する。
第三章末尾の五節では、こうした類似と近接による観念連合のプロセスをめぐる議論が説得力をもって展開される(現代の脳科学者がこの議論に説得されるかどうかは判らない)。


大雑把にいえば、類似とは空間的(正確には無時間的)な位置関係や形にかかわるもので、近接とは時間的(正確には時空間的)な先後関係のことだろう。
この二つはどこか意味記憶エピソード記憶の区分を連想させる。
だとすると、ベルクソンが「記憶力の基底をあらわす極限の平面では、近接によって先立つ出来事ばかりか後に来る出来事の全体とも結びついていないような記憶はない」(191-192頁)というとき、夢想の平面(AB)における極限のエピソード記憶とは、まさに(終末論的な)未来感覚をもった歴史記憶とでもいうべきもので、それはショーペンハウアーの「意志」の世界にうごめいているものなのではないか。
そのほか、私たちがもつ「現実感」とは「私たちの有機組織が刺激にたいして自然に反応するための効果的運動について、私たちがもつ意識のことである」(197頁)という言い方はどこかスピノザを思わせるとか、あるいはベルクソンが語る記憶の存在様式はホログラフィとかフラクタルを連想させるなど、あれこれ「発展」させると面白い素材がふんだんに盛りこまれている。
また、純粋イマージュ(AB)から行動(S)へと収縮する記憶の運動には法則があって、「人の心を描く画家」(191頁)すなわち心理小説家が描く観念連合が真実であるかどうかはこの法則に適っているかどうかによるという議論は、心理小説ではなく『物質と記憶』のような哲学書の場合にはどうなるのか。
端的にいうと、ここ数か月つづけているこの独り読書会は、八年を要したという『物質と記憶』執筆時のベルクソンの高次の精神生活を反復しえているのだろうか。


書物を読んですらすら頭に入ってくるときは要注意だ。
特に哲学書を読んで抵抗なく理解でき、空想・連想・妄想の類が跋扈するときは危険だ。
図式化され平板化された了解をただなぞっているだけで、そこにはいささかの記憶の収縮も精神の緊張も伴っていない。
哲学的思惟もどきが自動的に演ぜられているだけだ。
自戒の意味もこめて、以下に第三部末尾の文章を二つ抜き書きしておく(現代の脳科学者がこの議論に説得されるかどうかは判らない)。

しかし観念は、生きていく力をもつためには、どこかで現実にふれること、すなわち段階を追うて、それ自身を漸次減少あるいは収縮しながら、精神によって表象されると同時に身体によって多少とも演ぜられうることが必要であろう。私たちの身体は、一方ではそれが受け入れる感覚と、他方ではそれが遂行しうる運動とをあわせもって、まさに私たちの精神を固定させるもの、精神に底荷と平衡をあたえるものである。精神の活動は記憶の累積を無限に超えるものであり、記憶の累積自身もまた、現在時の感覚と運動を無限に超える。しかしこの感覚と運動が、生活への注意ともいうべきものを条件づけているのであり、それゆえに、精神の正常な働きにおいては、ちょうど頂点を下にして立つピラミッドのように、すべてがそれらの凝集にかかっているのである。
 さらに最近の発見から明らかになったような神経系の精細な構造を一べつするとよい。伝導体はいたるところにみとめられそうだが、中枢はどこにもみとめられそうにないだろう。数多の繊維が端と端を向き合わせて並んでいるし、流れが通過するときはたぶん先端と先端が近づくらしいが、それだけしかわからない。またもし、私たちがこの書物の中でずっと仮定してきたように、身体は受けた刺激と遂行される運動との出合う場所にすぎないということが本当ならば、おそらくそれだけのことしかないであろう。しかし外界からの動揺や刺激を受けとり、適切な反応という形でそれらを外界へ送り返すこれらの繊維、末梢から末梢へといかにも精妙に張りめぐらされたこの繊維は、まさしくそれらの結合の堅実さと、交錯の精確さによって、身体の感覚=運動的平衡、すなわち現在の状況への順応を確保する。この緊張がゆるむか、この平衡が破壊されるかすれば、あたかも注意が生活から離れ去ったかのように見えるだろう。夢や狂気は、ほとんどこれ以外のものとは見えない。(195-196頁)

 身体が記憶を脳の装置の形で保存するとか、記憶力の喪失や減退がこの機構の多少とも完全な破壊を本質とするのにたいし、記憶の高揚や幻覚は反対にその活動の行き過ぎにあるとかいう考えは、それゆえ、理論によっても事実によっても確証されない。(中略)すべての事実、またすべての類推は、脳にただ感覚と運動の媒介のみを見ようとする理論、すなわち、この感覚と運動の総体を精神生活の先端、出来事の織物の中にたえずはいり込む先端であるとし、こうして記憶力を現実へと向け現在に結びつける唯一の機能を身体に帰しつつ、この記憶力そのものを物質から絶対独立したものとみなすような理論に有利である。この意味で脳は有益な記憶を喚起する役に立つが、さらに他の記憶を暫定的に斥けるのにもいっそう寄与するところが多い。記憶がどうして物質の中に住むようになるかは知らないが、──現代のある哲学者の意味深い言葉にしたがって──「物質がわれわれの内に忘却を置く」ということは、私たちにはよくわかるのである。(198-199頁)