【哥の勉強】哥と共感覚(続)

 川田順造著『コトバ・言葉・ことば──文字と日本語を考える』(青土社,2004)に、和歌の枕詞は元来、振りを伴っていたのではないかという西郷信綱の説が紹介されていた。(出典は記されていない。興味深いので、そのうち調べておこう。)
 この話は、『コトバ・言葉・ことば』に収録された「詩と歌のあいだ──文字と声と身振り」の、文字に書かれ読まれることを前提にした詩と、楽器や手拍子の声、身体運動を伴ってうたわれる歌との関係をどう考えるを論じたくだりに出てくる。
 この短い文章には、ほかにも「声のアジール」とか、「言語音の音象徴性(約束による概念化された意味を媒介としないで、言語音が直接感覚に働きかける力)」とか、刺激的な語彙がちりばめられている。(「音象徴性」の話は、『聲』で詳細に論じられている。再読しなければ。)


 哥は、文字であり、音であり、声であり、そして身体運動である(かな文字でしるされた哥は、その形態そのもののうちに運動をはらんでいる)。このうち、共感覚に関係するのは、「音象徴性」をもった音なのかもしれない。


 川田順造からの連想で、クロード・レヴィ=ストロースの『みる きく よむ』(竹内信夫訳,みすず書房,2005)を流し読みしていて、ランボーの詩「母音」を取り上げた「音と色」の章に、「ランボーボードレールの読者であった」とあるのを見つけた。ボードレールの「コレスポンダンス」が、共感覚との関係で興味深い。
 ついでに眺めた「言葉と音楽」の章に、忘れられた18世紀の思想家シャバノンについて書かれた一文があった。面白いので抜き書きしておく。


蜘蛛の糸の交感──諸感覚のあいだにある不変の関係


《芸術哲学は、と彼は言う、個別の感覚のそれぞれに、他の諸感覚がその感覚に感じさせるものを知らせるという固有の任務をもっている──「たとえば、蜘蛛は、自分が張った網の中心に陣取って、すべての糸と交感し、いわばそれぞれの糸のうちに生きているので、(もし人間の感覚のように蜘蛛の糸に生命があるなら)ほかの糸すべてが彼に与える知覚を、ある特定の一本の糸に伝達することが出来るだろう」。(蜘蛛は当時の流行だった。意識の類似物としての蜘蛛の巣のイメージは、一七六九年に書かれ、シャバノンの死のはるか後、一八三一年になってようやく刊行された[ディドロの]『ダランベールの夢』にも見えている。)
 このボードレール万物照応はなにも人間の感性にだけ関与しているわけではない。諸感覚のあいだに反響するこれら照応関係は、ひとつの知的操作に依存している(象形文字に関する彼の理論においてディドロはその点を無視している)──「目に見えるものを音楽で描写するのは、本来の意味での耳のためではない。それは、諸感覚の中心に陣取り、それらの感覚が感じるものを比較し、結合する精神のためであり」、その精神はそれら諸感覚のあいだにある不変の関係を捉えるのである。これら不変の関係になんらかの内容を求める必要はない。それは形式なのだ。(略)ある音楽家が夜明けの光景を喚起したいと思うとしよう。彼が描くのは「昼でも夜でもなく、ただひとつの対照なのだ、それも対照的であればなんでもよい。どんな対照であったも、光と闇のそれと同じように、すべて同じ音楽で表現できるはずなのだ」。事項はそれ自体としてなんの意味もない。重要なのはただ関係だけである。》(レヴィ=ストロース『みる きく よむ』101-102頁)