【哥の勉強】哥と共感覚(拾い書き)

◎歌を聴くとは、時間経験を味わうことである


《この歌[足曳きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝ん]の聞き手にとって、言葉の意味は素直に流れない。無意味な音[枕詞:足曳きの]に始まり、突然意味が中断し[山⇒山鳥⇒尾]、新たな話題[独り寝の寂しさ]が立ち上がり、聞き流していた前の言葉[長々し;山鳥]に新たな意味[長々し尾⇒長々し夜;山鳥が雌雄別れて眠るという伝承]が加えられる。聞き手が経験するのは、立ち止まり、歩きだし、飛躍し、振り返り、落着するという運動である。歌を聴くとは、このような時間経験を味わうことである。そしてこの時間経験を豊かにしているのが、緩急の変化、話題やイメージの変化、見過ごされた意味の再発見などである。とすれば、言葉の続き方が一様でないこと、話題が途中で転換すること、同じ言葉が二つ以上の意味を兼ねることなどがその効果のための必要条件となるだろう。第一の条件のために枕詞や非文法的結合が、第二の条件のために主題と異なる副次的な話題が、第三の条件のために掛詞や隠喩などが要請されるのである。》(尼ヶ崎彬『縁の美学──歌の道の詩学?』21頁,勁草書房,1983)


◎極めて微妙な音の響きの重なり合いで成り立っている室内楽


《最初にお断りしておかねばなりませんが、日本語は言語そのものがきわめて微妙なニュアンスに富んだ言語だということです。特に日本語の最も日本語らしい特徴を示す助詞や助動詞は、それ自体では独立した意味を表わさない語で、翻訳に当たっても最も問題の多い品詞であります。それらは名詞、動詞、っ形容詞などに結びつくことによって、きわめて多彩な意味を生み出し、ニュアンスに富んだ表現をあらわします。そして、言うまでもなく和歌は、助詞や助動詞が最も活躍する文学領域であります。特に『古今和歌集』がそうでした。『古今集』の歌は、いわば極めて微妙な音の響きの重なり合いで成り立っている室内楽、あるいは複雑に交錯して繊細な模様を生み出しているアラベスクの線にも似ていると言えましょう。》(大岡信『日本の詩歌』69-70頁,岩波現代文庫,2005/1995)


《ここ[秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる]で重要なことが明らかになります。「視覚」よりもさらに微妙でとらえがたいのが普通であるはずの「聴覚」が、和歌では視覚よりも一層深い味わいをもった感覚として喜び迎えられているということです。
 これは言いかえると、平安時代歌人たちが、男も女も、いま眼の前で現実に見ているものよりも、むしろ音として遠方から聞こえてくるよそものの「気配[けはい]」に敏感だったことを示しています。そのことは彼らの生活形態そのものと密接に関係する事実だったろうと私は思います。というのも、多くの場合、彼らの生活圏はきわめて狭く限られていたので、見て確かめることよりも、耳で聞くことによって生活が大きく左右されたからです。》(同74-75頁)


◎視覚レヴェルでの理解─清濁を書き分けない仮名連鎖による多重表現


《平安初期に成立した仮名は、今日の平仮名と違って、清音と濁音とを書き分けない音節文字の体系であった。和歌は、その特徴を積極的に生かして作られている。(略)本書の主題との関連において指摘しておきたいのは、平安前期の和歌表現を特徴づける複線構造による多重表現が、仮名に特有の右のような特質を巧みに利用して形成されたという事実である。原理的にいって、特定の言語とそれを表わす文字体系との結びつきは不可分ではないが、それらを積極的に結びつけ、文字体系としての仮名の特質を利用して日本語の韻文表現に新しい地平が開かれたことは、言語文化史上、特筆すべき出来事であった。》(小松英雄『みそひと文字の抒情詩──古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』21-22頁,笠間書院,2004)


《実用的な片仮名文や漢字文と違い、仮名文は実用を離れた書記文体であった。和歌も和文も、事柄の一義的伝達を目的とする文体ではなかったから、ことばの自然なリズムを基本にして、先行する部分と付かず離れずの関係で、思いつくままに、句節がつぎつぎと継ぎ足される連接構文で叙述され、叙述し終わったところが終わりになる。それは、とりもなおさず、口語言語による伝達に共通する汎時的特徴にほかならない。付け加えるなら、『源氏物語』が連接構文で書かれているのは、思いついたことをつぎつぎと書き足してできあがったからではなく、そういう構文として推敲された結果である。》(同23-24頁)


《『古事記』、『日本書紀』などには、口頭で表現された韻文が文字で記録されている。文字がなくても日本語の韻文は存在していたし、それらは、本来、朗唱されるもの、朗唱可能なものであった。したがって、上代の韻文は、どのような文字でどのように表記されても、詩としては等価であった。
 平安時代の和歌が〈みそひと文字〉の仮名連鎖として作られるようになったのは、当時の歌人たちが、清濁を書き分けない音節文字の特性を利用する、まったく新しい和歌表現の可能性を見いだしたからである。
 『古今和歌集』に代表されるこの類型の和歌は、音声=聴覚レヴェルでなく、視覚レヴェルで、すなわち、仮名連鎖に意味を引き当てることによって一次的理解が成立するように作られている。共通の仮名連鎖に重ねられた複線構造の和歌を単線的に朗唱したのでは、モノウカルかモノウガルか、ナガレテかナカレテか、どちらか一方の意味にしかならないから、もとの表現はいちじるしく損なわれる。実のところ、『古今和歌集』の和歌は、これまで、そのように読まれてきた。》(同28頁)


《和歌と和文との書記文体は、『土佐日記』と『枕草子』との例で確認したように、根幹においてつうじている。和文と和歌とは、歌集では詞書と和歌との関係として、また、物語や日記では、叙述と一体化された和歌という関係で、共通する文体的特徴をそなえている。したがって、自由かつ自然な形で和歌的表現を和文に取り入れることが可能であった。和歌と和文とを仮名文と総称するのは、両者の体質が融和的だからである。》(同38-39頁)