空っぽの器─永井均が語ったこと(その3)

 永井均の第一アリアを聴きながら、私はたまたま同時並行的に読み進めていた書物のことを思った。
 その書物とは安藤礼二編『折口信夫文芸論集』。そこに収められた「俳句と近代詩」のなかで折口信夫は、短歌(和歌)は「無内容」だと語っている。


《たとえば雪──雪が降っている。其を手に握って、‘きゅっ’と握りしめると、水になって手の股から消えてしまう。其が短歌の詩らしい点だったのです。処が外の詩ですと、握ったら、あとに残るものがない筈はない。つまり、そうでなければ思想もない、内容もないということになる。古風の短歌は握りしめてしまえばみな消えてしまった。何も残らない。そう言うのが恐らく理想的なものとなっている筈の短歌に、右に言ったような内容があり、思想がある訣はないのです。つまり神が日本人の耳へ口をあてて告げた語──それが受け継ぐことが出来れば、其で神の人間に与えた悲しみも、愉しみも、十分に伝え得たと安んじて来たのでしょう。意味が訣っても、訣らなくとも、神の語は音楽として人の胸に泌むとせられたものなのです。》(講談社文芸文庫折口信夫文芸論集』165頁)


 この折口信夫の議論を受けて、山本健吉は『いのちとかたち──日本美の源を探る』で次のように論じる。


《序詞、枕詞、歌枕と、これらの虚辞によって、短歌の生命標は保持されて来た。それは意味でなく、思想でなく、美辞麗句でなく、あるいはまたイメージでもなく、象徴でもなく、そのような実事的、内容的なものを出来うるかぎり避けて、三十一文字という詩の器をからっぽに近いものにして、その上でたとえば山の清水がとくとくと音して充たしてくるように、おのずから充ちてくるもの、それがすなわち「うた」であり、そこには「うたごころ」とでも言うより外ないものが、確かにあると信じて、千数百年にわたって、ひとは短歌を飽きもせずに作りつづけて来たのである。》(角川文庫『いのちとかたち』360頁)


 私は、ここに出てくる「からっぽ」の「詩の器」が、永井均が言う「空っぽのやつ」すなわち「ただ実存だけがあって本質はない」〈私〉とほとんど同類のものではないかと考えている。


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 永井哲学と短歌。短歌というより「古風の短歌」すなわち「和歌」という方がしっくりくる。


 ここ十年近く私は「哥とクオリア/ペルソナと哥」という論考群で、永井哲学と王朝和歌、王朝和歌そのものというよりは歌論(と歌論を淵源とする芸論、俳論の類)を結びつけて考えようとしている。
 その実態は、Web評論誌「コーラ」の連載で確認してください(もし関心を持ってもらえれば)。
 和歌(短歌)=「からっぽ」の「詩の器」と永井均の〈私〉=「空っぽのやつ」は同類ではないかという論点は、この連載の今後の最大のテーマになっていくものだ。
 ここでは(このブログでは)、短歌(和歌)と永井哲学の関係をめぐって、「最近」になって気がついたこと、「発見」したことを二つ記録しておく。