空っぽのアリア─永井均が語ったこと(その2)

 鼎談で、永井均さんは何度か、請われて「永井哲学」のエッセンスを語る。歌うように語る。
 その最初の「アリア」で、無心というときの「心」(=実存)とマインドフルネスの「マインド」(=本質)の違いを語っている(第一章、32-40頁)。


 無心、無我というとき、いったい何がないのか。それは「本質がない」ということではないか。「私には本質がない」。これが永井の主張であり、かつ仏教的なことでもありうる。
 私には本質がない。しかし、実存はある。つまり、私はただ存在している。(この「実存」のことを「仏性」と呼んでいいかもしれない。)
 われわれが、どれが私であるのかどうやって捉えているかといえば、ただ直接的に実存している「こいつ」ということだけで識別している。それは単なる事実である。(認識論)
 私が存在するということは、ある特定の本質、内容、中身、心理状態(脳状態)を持った人が存在しているということではない。なぜか端的に感じられる、端的に「これ」である生き物が一つだけあるということだ。(存在論


《だから[山下]良道さんが、「私の本質は青空だ」とよくおっしゃっていますけど、それは私から言えば、「私にはただ実存だけがあって本質はない」と言い換えられますね。本質とか内容とか中身とかなくて、ただ存在している。いわば空っぽ。空っぽというのは「空」と言ってもいいですね。本当にこれは空っぽなんですよ。事実なんです、単純に事実です。そうじゃなかったら、中身なんかあったら、どれが私だかわからなくなっちゃいますから。空っぽのやつが一人いるんじゃなかったら、たくさんいる中で、どれが自分だか分からなくなっちゃいますから。絶対分からなくならないのは、一人だけ本当に空っぽで中身がないからなんですよ。
 中身がないというより、中身じゃない、と言ったほうがいいかな。中身はあることはあるんだけど、関係ないんですね。中身が関係ないやつが、一人だけいるんですよ。これは驚くべきことだけど、本当のことです。内容はただの作り物というか付属品でたいしたものじゃない、そういうやつが一人だけいるんです。》(41-42頁) 


 こういうのを「永井均のアリア」と私は呼ぶ。
 内容や中身ではないアリア、内容はただの作り物・付属品でしかないアリア、空っぽのアリア、だけど「驚くべき」事実として存在する(歌われる)アリア。


 ここから先、仏教とも永井哲学とも関係のない領域に立ち入る。