『〈仏教3.0〉を哲学する』で永井均が語ったこと(その1)

 期せずして本書は「永井哲学」の入門書としても役立つものになっている。永井均さんは『〈仏教3.0〉を哲学する』の「鼎談の後に(二)」でそう書いている。


 永井均が「永井哲学」を自称するのは、かなり珍しいことなのではないかと思う。
 『〈私〉のメタフィジックス 』の初版刊行が1986年のことだから、まとまったかたちで世に出て(外に向かって表現されて)から三十年、もうすっかり永井均の哲学的思考は社会的、歴史的に確固たる客観的存在物になった(もはや永井均の独占物ではなくなった)ということなのだろう。
 鼎談では、「永井哲学ウィルスみたいなのを仏教に入れて、中で仏教の教義を変えていってどんどん増殖した時にどうなるか、それを見てみたい。もしかしたら、これまでの仏教が死んでしまうかもしれない。(略)ひょっとしたら3・0を超えて4・0ができるかもしれない」(藤田一照、168頁)といった発言もとびだしている。


永井均が「永井哲学」を自称するのは珍しい。そう書いた「舌の根」も乾かないうちに、『〈私〉の哲学 を哲学する』に「以下で試みるのは…「永井哲学」の解説である」(6頁)と永井均自身が書いているのを「発見」した。
 ただ、これはきちんと実証されていない感覚的な書きつけだが、やはり「仏教3.0」での発言はこれまでとは次元が違うように思う。)


 「鼎談の後に(二)」でもう一つ共感したのは、ナーガルジュナの『中論』と道元の『正法眼蔵』を別にして、仏教書を読んで感心した覚えがない、主張内容が幼稚すぎる、と書いてあったこと。「複雑そうに見える(が実はつまらない)仏教の諸教説」というくだりにもぐっときた。
 本文での次の発言も。「哲学の人」の面目躍如。
「禅の人は矛盾概念を使うのを喜ぶじゃないですか(笑)。あれはよくないよね。禅の一つの欠点というのは、矛盾概念を明らかにしないで、そのまま喜んで使い続けて、何か意味あり気にするという点。ちゃんと解明することができるはずですから、やはりどういうことなのかをちゃんと言わないといけない。」(32頁)


 と、書き始めると、どんどん中身に入ってしまう。
 久しぶりのブログで書きたかったことは、もちろん鼎談で永井均が語った内容についてではあるのだが、それはあまり「仏教3.0」に関係することではない。もしかすると「永井哲学」とも無関係なことかもしれない。