『贋金つくり』からの抜き書き

昨日、クロソフスキーのことを書いていて、ジッドの『贋金つくり』にいきついた。
この本は以前読んだことがあって、結構面白かった。
昔書いた文章、というか編集したもので取り上げたことがある。
そこで抜き書きしたアンドレ・ジイド『贋金つくり』(川口篤訳,岩波文庫)からの引用を、文脈を無視して順番にペーストしてみる。
通して眺めてみると何かが起こるかもしれない。


エドゥワールの純粋小説論
《小説から、特に小説本来のものでないあらゆる要素を除き去ること。先ごろ、写真が、ある種の正確な描写に対する苦労から絵画を解放したように、近い将来、おそらく蓄音機が、写実作家のしばしば自慢する写実的会話を一掃することになろう。外部の出来事、偶発的事件、外傷的疾患は、映画の領分で、小説はこれらのものを映画に任せて置けばいい。人物の描写でさえ、本来小説に属するものとは私には思えない。然り、純粋小説は、(そして芸術においては、他の何事においても同様だが、純粋性だけが私には大切なのだが、)そんなものに意を用いるべきではないように思われる。その点、劇の場合と同様だ。劇作家がその人物を描写しないのは、観客が舞台の上に彼らの生きた姿を見られるからだなどと思ってもらっては困る。なぜなら、われわれは幾度舞台で俳優に邪魔されたことだろう。そして、俳優さえいなければ実に正確に人物のイメージをつかんでいるのに、その人物に俳優が似ても似つかぬことに、幾度苦しめられたことだろう。──小説家は、通常、読者の想像力に十分の信頼を置いていない。》(101頁,上巻)


◎夢の話から始まる会話、火挟みで焔をつかもうとする人
 ボリスの治療を担当する精神科医ソフロニスカ夫人とエドゥワールの対話。
《「それでは、あなたに告白しなければならないことが、あの子にあるというお見込みですか? 失礼ですが、御自身があの子に告白させたいと思っていることを、暗示したりしないという確信がおありですか?」(略)「早い話が、私たちの会話が、どんな風に始まるとお思いになりまして? ボリスが、前の晩に見た夢の話をすることから始まるのです。」/「作り話をしているのではないということが、どうしておわかりです?」/「かりに作り話をするとしても……病的な想像力から生まれる作り話は、すべて、何かを明らかにしてくれるものなのです。」/彼女は、しばらく口をつぐんだが、やがて、/「作り話、病的な想像力……いいえ、そうではありませんわ。言葉というものは、私たちの真意を裏切るものですからね。ボリスは、私の前で、声を出して夢を見ますの。毎朝、一時間のあいだ、そういう半睡状態でいることを承知してくれたのですが、そういう状態で私たちに浮かんで来る幻影は、理性では制御できません。それは普通の論理によってではなく、思いがけない関連性で集まったり、結びついたりするのです。(略)理性で捉えられないものは、たくさんあります。人生を理解するために理性を用いようとする人は、火挟みで焔をつかもうとする人に似ています。(略)/彼女は、再び口をつぐんで、私[エドゥワール]の著書の頁を繰りはじめた。/「あなたは、人間の心を深くえぐることをなさいませんのね。」と、彼女は叫んだ。それから、急いで笑いながら、付け加えた。――「いえ、特にあなたの事を申しているのではありませんわ。《あなた》と申しますのは、小説家という意味ですの。あなた方のお書きになる人物は、大方、杭の上に建てられているように思われますの。土台もなければ、地階もありません。」》(236-7頁,上巻)


◎自然に近づくこと─文学におけるフーガの技法
《小説が将来に期する唯一の進歩と言えば、より一そう自然に近づくことです。(略)なるほど、心理的真実は個々の真実しかないでしょう。しかし、芸術は普遍的な芸術しかないのです。問題は、かかってそこにあるのです。個々によって普遍を表現すること。個々によって普遍を表現させること、です。(略)…真実であると同時に現実から遠く、個人的であると同時に普遍的で、人間的であると同時に架空的な小説が書いてみたいのです。(略)一方において、現実を提示するとともに、他方、…その現実を消化する努力を見せたいのです。(略)…現実が提供する事実と、観念的な現実との闘争…。(略)『感情教育』や『カラマゾフ兄弟』の日記、つまり、作品の歴史、その受胎の歴史といったようなものがあったら!(略)観念は、人間のように生きています。戦います。死の苦しみを味わいます。無論、観念は人間を通してはじめて認識されるのだとは言えましょう。風にそよぐ葦によって、はじめて風を認識するのと同様です。しかし、やはり風の方が葦よりは大事なんです。(略)僕が狙っているのは、フーガの技法といったものなんです。それで、音楽で可能なことが、なぜ文学で不可能なのか、合点がいかないのだが……》(244-51頁,上巻)


◎神の訪れの状態
 ドゥーヴィエ(ローラの夫、叙情味[リリスム]がない男、つまり神に打ち負かされることを承知しない男、自分の感じるものの中に決して自我を没入しない男、したがって決して偉大なものを感じることがない男、霊感を持つことのできない男)をめぐるエドゥワールとベルナールの会話。
《「僕も、抒情的状態を克服しなければ、芸術家たり得ないと思うね。しかし、それを克服するには、まずそれを経験しなければだめだ。」/「そういう神の訪れの状態は、生理学的に説明されるとはお考えになりませんか? つまり……」/「愚論だな!」と、エドゥワールは遮った。「そういう考え方は、いかに正確であっても、愚民を惑わすだけのことだね。たしかに、どんな神秘的運動にも、物質的な裏打ちのないものはないさ。だからどうだというのだ? 精神が顕現するには、物質がなくてはすまされない。キリスト降生の神秘も、そこにあるのだ。」/「逆に、物質は立派に精神がなくてもすみますね。」/「そいつは、われわれにはわからない。」》(127頁,下巻)


◎ストゥルーヴィルーのダダイズム
《文学は、少なくとも、過去を一掃しない限り、生まれ代ることはできないんじゃないかとさえ思えてくるんだ。われわれは、既成の感情の上に生きている。読者もそれを実感しているような気になる。読者なんて、印刷されたものは何でも信用するからな。そこが作者のつけめさ。自己の芸術の基礎と信じている約束事に頼ると同じようにね。こうした感情は、数取り札同様、怪しい響きを立てるが、結構通用するんだ。そして、《悪貨は良貨を駆逐する》ことをみんな知っているから、本物の貨幣を大衆に払おうとすると、ごまかされるように思うんだ。みんながいかさまをやっている社会では、本物の人間がペテン師に見えるのさ。ことわって置くが、もし僕が雑誌を引受けるとしたら、革袋を引き裂いて、あらゆる美しい感情とか、言葉という約束手形の流通をとめちまうためだ。(略)今日、目のきく若者たちは、とにかく詩のインフレーションにはあきたらず思っているんだぜ。巧妙な韻律、響きのいい抒情的なきまり文句の裏に、どんな臭いものが隠れているか、ちゃんと知っているんだ。ぶち壊そう、と言い出せば、手を借す[ママ]奴はいつ何時でも見つかるさ。一切合財ぶち壊すことだけを目的とした一派を、二人で興さないか?》(149頁,下巻)