『貨幣とは何だろうか』からの抜き書き

昨日の続きで、今度は今村仁司著『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)からの自己引用。


経済小説と貨幣小説
 今村仁司氏は『貨幣とは何だろうか』で経済小説と貨幣小説を区別している。経済小説とは──たとえばバルザックやゾラの作品にしばしば商人や産業家や銀行家が登場するように──経済的現象そのものを扱う小説をいう。これに対して貨幣小説とは──ゲーテの『親和力』からボードレールマラルメの贋金論、ポーの『黄金虫』までの作品系列、そしてジイドの『贋金つくり』に見られるように──「媒介形式」としての貨幣の問題を、経済だけではなく広く人間の根源的経験にかかわる問題として、つまり「文学的認識」の問題として扱った小説のことである。


◎『贋金つくり』─家族の物語
《近年では、しきりにシミュラークルの時代であるとか、シニフィエなきシニフィアンの時代であるとか、さかんに議論されたが、完全に指示対象がない、あるいはリアルなものが完璧に消滅する、などということはできない。もしそうなら人は現実性なるものについて語りえないのだから、まさにかげろうのごとき世界になるのだが、そうしたことは十九世紀リアリズムの対極にある贋物中心主義になる。たしかに、そうしたことが事実なら、それは幽霊の世界であろう。しかしそうした幽霊はこわくない。それは張り子の幽霊である。本当にこわい幽霊は、本物であり贋物であるという存在である。すべての存在が本物にして贋物であるという両義的なものになることこそ、恐怖の理由なのである。
 アンドレ・ジッドはこの問題をじつに正確に把握している。それは十九世紀の歴史的現実と人間の自己理解とはちがうものが出現したことへの驚きが、彼の小説のなかにはあるのだ。本書の主題に引きこんでいえば、人間が両義的存在になることは、人間がついに完全に貨幣形式に包摂されたことを指している。そしてそのときのみ、厳密に、文学においても、人間を描くときに貨幣の言葉を使うことが正当な語り方になる。ジッドが小説の題名を『贋金つくり』としたのは、偶然ではなく、考えぬかれた結果であるといわなくてはならない。》(140-1頁)


◎終わりなき反復と二つの実験、金本位制の崩壊と宙吊り
《さて、こうして二人の代弁者をもって闘わせられる文学論争は、結局は、同じ土俵の上での論争であることがわかる。エドゥワールは、現実から遠く離れた純粋言語を追求して、それを現実理解の媒介者に仕立てたいと願う。しかし彼の試みは、今度は逆にイデア的なもののインフレーションを引きおこす恐れがある。(略)インフレは、定義によって、価値の低下を引きおこす。本物であるべきイデア(純粋理念)の減価であり、すなわち贋金である。他方、ストゥルーヴィルーは、現実の通貨の贋金性(非兌換の通貨)を批判する一種の「経済学批判」をやるのだが、実際にできることは、クリスタルガラスを本物と思いこませる手品にすぎない。(略)エドゥワールのように、純粋の本物をめざして出発しても、贋金に帰着するし、ストゥルーヴィルーのように贋金のなかに本物をまぶして流通させようとしても、やはり贋金しか流通させることはできない。こうして小説は終わりなき反復を見せはじめる。(略)これはどういうことか。おそらくジッドは、この文学論争のどちらも可能であると思いながら、同時にどちらにも賛成できない、という宙吊り状態のなかにいるかに見える。(略)この宙吊り状態は、二つの選択肢(純粋小説路線か、言語の破壊か)が決着のつかないままに睨みあっている現実を反映している。それはジッドの宙吊りであるばかりでなく、その後の歴史の経験全体の宙吊り状態、つまりわれわれの宙吊り状態なのである。エドゥワール的実験もすでに行なわれてきた。ストゥルーヴィルー的実験も数多くなされてきた。しかしそれで何かが前進したのか。家族的価値、経済的価値、政治的価値、芸術的価値その他の面で、そうした実験の結果として画期的展望が開かれたとは思えない。依然として世界は、ジッドが描く状態にとどまっている。
 ジッドの小説には、金本位制が崩れて通貨と金との兌換が不可能になる事態の先どりがある。非兌換制下の通貨は、十九世紀の金本位制の立場から見れば、贋物の貨幣でしかない。そうした事態は、一九三◯年代以降に世界経済の常態になるだろう。文学のリアリズムが崩壊しただけではない。社会関係のあらゆる領域で、秩序の原点になる「一般等価形態」の崩壊現象、あるいは文化価値としての「金本位制」の崩壊現象が滔々と進展していた。文学における言葉と物との照応の信念が崩れることと、経済、政治、家族などにおける価値中心(金銀という素材貨幣、自由主義国家、父権など)への信念の解体とは、本質的に連動している。
 したがって、ジッドの小説は、関係の媒介者としての一般等価、すなわち貨幣形式の崩壊を先どりし、新たな媒介形式がまだ見あたらない事態の過渡期を忠実に映しだしているとも読めるだろう。それは過去のことではない。ある意味では、ジッドの小説は、いま再びアクチュアリティーを帯びはじめているのだ。贋金と本物が区別できない状態は、ジッドの時代にもまして全世界的になっているからだ。》(160-3頁)