『国家の品格』

クロソフスキーや『贋金づくり』をめぐる濃厚な「気分」が続いたあとに書くのは少し気が引けるが、最近、藤原正彦著『国家の品格』(新潮新書)を読んだ。
こういう本は、ふだん滅多に読まないし、ましてや買わない。
「こういう本」というのは、まさに『国家の品格』がその典型で、たとえば大企業の会長だとか社長が大量に買い込んでは、部下に「これを読め」と配るような本のことだ。
その気持ちはとてもよく判る。
「そうそうそうなんだよな、オレが言いたかったことはすべてここにある、よくぞ書いてくれた」と胸の支えがおりたような、長引く不調和の後の快便の爽快感のような、いわく言い難い解放感が読中読後のハイをもたらしてくれる。
それは、よくいえば他人の頭を使って(効率的に)思考しているということだが、悪くいえば何も考えていないに等しい。
こういう書き方で中和もしくは解毒を図っているのは、訳あって買い求め、なかば義理で読み進めていって、「なんだ、ここに書かれているのは、当たり前のことばかりではないか」と、このところの「激務」ですっかり回転がにぶってしまった脳髄が、この本にさわやかな爽快感といわく言い難い解放感を覚えて、それがちょっと気になったからだ。
耳に心地よく聞こえたり、違和感なしに腑に落ちるときは要注意。
正しすぎる議論や明快すぎる言説に接したら、「ちょっと待って、それはどういう意味?」と老獪なソクラテスのごとく問いを発しなければいけない。
「国家って何?」「品格って何?」「日本人って何?」「日本文化って何?」等々。
物言わぬ花の美しさを思え、と物言う人が語ることのおかしさを自覚してさえいればいい。
秘すれば花をあからさまにすることに恥じらいがあればなおよい。
思考停止寸前の頭では、そう書き記しておくだけで精一杯。