文章読本──抜き書き・三島由紀夫全集31巻

 昨日につづいて、『決定版三島由紀夫全集』31巻を眺めた。
 口絵に、映画「からっ風野郎」(昭和35年増村保造監督、大映)でヤクザの名門朝比奈一家の二代目に扮した三島由紀夫と、情婦役の若尾文子とのツーショット写真が使われている。
(この映画は未見だったので、さっそくDVDをレンタルして観た。三島由紀夫の、いかにも運動神経のなさそうな猫背のアクションと科白回しが、チープで頭の悪いちんぴらヤクザの役と見事にマッチし、可憐で気丈でしたたかな若尾文子とのからみもよくできていて、なかなかいい作品だった。)
 その若尾文子のことについて、「スタアといふものは、たださへ人工的な美しさで飾り立てられて、プラスチックみたいにピカピカしてきて、生活感も実在感もない人形になりがちだが、若尾さんはちやんと自分のいのちの息吹を生れたままの自然さで呼吸してゐる。だから若尾さんの演ずる役には、リアルな生活感が失はれない。」(「若尾文子さん──表紙の女性」、421頁)と讃えている。
 そのほか、印象に残った箇所を抜き書きしておく。以下は、いずれも「文章読本」(昭和34年)から。


     ※


 純粋な日本語とは“かな”であります。平がなのくにやくにやした形から、われわれはあまり男性的な敢然としたものを感ずることはできません。実際平がなで綴[つづ]られた平安朝の文学は、ほとんど女流の手になつたものでありました。日本の純粋のクラシックは、このやうな女流の手に綴られた、いかにも女性的な文学によつて代表され、その伝統はいまも長く尾を曳[ひ]いて、“日本文学の特質は一言をもつてこれを覆へば、女性的文学と言つてもよいかもしれません”。(19-20頁)


 …“日本人は奇妙なことに男性的特質、論理的および理知の特質をすべて外来の思想にまつたのであります”。(略)日本の男性的文化はほとんどすべて外から来たものであり、まだ外来文化に浴さないうちの日本の男性は、「古事記」時代のやうな原始的男性の素朴さを持ち、まだ感情を発見することなくひたすら素朴な官能に生きてゐました。男性が感情を発見する前に、女性が感情を発見したのであります。(21-22頁)


 …日本の文学はといふよりも、“日本の根生(ねおひ)の文学は、抽象概念の欠如からはじまつた”と言っていいのであります。そこで日本文学には抽象概念の有効な作用である構成力だとか、登場人物の精神的な形成とか、さういふものに対する配慮が長らく見失はれてゐました。男性的な世界、つまり男性独特の理知と論理と抽象概念との精神的世界は、長らく見捨てられて来たのであります。平安朝がすぎて戦記物語の時代になりますと、そこでは叙事詩的な語りものの文学、「平家物語」とか「太平記」が生まれましたが、そこで描写される男性は、まつたくただ行動的な戦士、人を斬つたり斬られたり、馬に乗つて疾駆したり、敵陣にをどり込んだり、扇の的を矢で射たりするやうな、ただ行動的な男性の一面が伝へられるにすぎませんでした。
 一方、平安朝の女流作家が開拓した男性描写、それはいはば女性の感情と情念から見た男性の姿であります。男性はひたすら恋愛にのみ献身し、男性の関心はすべて女性を愛することに向けられました。そこでは男性すらが女性的理念に犯されて、すべて男女の情念の世界に生き、光源氏のやうな、絶妙な美男子ではあるが、ただ女から女へと渡つて行く官能的人間を、理想的な姿として描いてゐます。これはまた戦記物の行動的な男子と同様、男子の一面を描写するにすぎません。(略)志賀直哉氏の「暗夜行路」の主人公時任[ときたふ]謙作は、彼が行動的人間であると同時に、異常な官能的人間であることで、西洋の近代小説から劃然[くわくぜん]と離れてをります。そこにはおそらく日本の文学者が作つてきた男性像のひとつの極限が見られるので、彼には抽象概念がまつたく欠けてゐるが、行動と恋愛においてだけ、感覚と官能においてだけ、男性であるのであります。
 われわれは日本語のかうした特質を、いつも目の前に見てゐなければなりません。多くの作家がかういふ特質から逃れようとしてさまざまな試みをしましたが、根本的には日本人が日本語を使ふ以上、長い伝統と日本語独特の特質から逃れることはできないのであります。日本文学はよかれあしかれ、女性的理念、感情と情念の理念においては世界に冠絶してゐると言つてもよろしいでありませう。(22-24頁)


 …散文の物語は和歌の詞書[ことばがき]から発達したものと言はれてをります。つまり詩の前に附された散文の注釈がだんだん発展して日記になり物語になつてきたといふのが、文学史の等しく言ふところであります。平安朝文学は「色好みの家」の伝統から生れたと言はれ、恋愛感情の交換にほかならぬ和歌の応酬によつて、情念の専門家が形づくられてゆき、その情念の専門家たちは、単なる和歌の形式には満足しなくなつて、抒情詩の注釈を拡張したのであります。そしてこの抒情詩の注釈の拡張が、日本の散文の発生をなしたといふ事情は、ギリシアの散文が歴史家の如き学者の文章や、ギリシアで多く行はれたアポロギア(弁明)などの演説から発展して行つたのとは、まつたく事情を異にするものであります。日本の散文は韻文とさう遠くない抒情的基盤から発生して、情念を解説し、情念を描写し、情念を構成しつつ発展しました。(27-28頁)


 私も根本的に言つて、日本では散文と韻文とを、それほど区別する必要はないと思つてゐます。…日本語にはなほかつ長い散文・韻文の混淆の歴史が日本語の特質の背後に深く横たはつてゐるのであります。これはあのやうな革命的変化であつた口語文の発達によつても、なほ、どこかしらに拭はれぬものを残してゐます。現代文学でも泉鏡花のなかにはまぎれもない韻文的文体の伝統がありますし、現代このやうな文体をはつきりと提示してゐるのは石川淳氏でありませう。谷崎潤一郎氏の散文にも語りもの的な、洋々たるリズミカルな文体の流れが顔を出してゐます。(28-29頁)


 …“日本では雑誌ジャーナリズムの影響もあつて、短篇小説といふものは一種独特な芸術的な質(クオリティー)をもつた文学形式と考へられてゐました”。日本人は短いものにたいへん芸術的に高度な性質を与へる国民であつて、短歌、俳句は言はずもがな、近代文学にいたつても短篇小説といふ恰好[かつかう]な形式を見出して、それに最も高度の芸術的欲求を働かし、かつ高度な文学的内容の要求を寄せたのであります。その結果、短篇小説が西欧における詩のやうな地位に近づいたことは当然であります。日本のやうに韻律を欠いた国において、詩人的才能をもつた作家が、現代口語文による近代詩に満足を見出すことができず、小説家となつて短篇小説に詩的結晶を実現した例も少なくありません。それが外国で紹介される場合は、ただノヴェリストと言つて紹介されるよりも、ポエットと言つて紹介された方が適当な人も多々あります。川端康成氏、堀辰雄氏、梶井基次郎氏は、この代表といふことができませう。
 川端氏のものでは「反橋[そりばし]」「しぐれ」「住吉」など連作の三篇は、純然たる一個の詩であつて、中世風な詩情の中にかすかに物語が織り込まれてゐます。その作品を読むときのわれわれの感じは、小説を読むといふよりも詩を読むのに近いのであります。(53頁)