『古代ローマの女たち』

ピエール・クロソフスキーの『古代ローマの女たち──ある種の行動の祭祀的にして神話的な起源』(千葉文夫訳,平凡社ライブラリー)を買った。
この本は以前、哲学書房版の『ローマの貴婦人』で読んだことがあるはずだが、ほとんど憶えていない。
どうせ、いい加減な気持ちでぱらぱらと流し読みをして、ちょっとした「気分」を味わってハイ終わりだったに違いない。
そんなふうにして時間を無駄に過ごしたことが、これまでにいったい幾度あったことだろう。
今でもうっかりすると、そうした「気分」で流し読みをしてしまうことがある。
そんなことで不毛な時間を費やすくらいなら、野に咲く花の一輪でも飽かず眺めているほうがはるかに優れた「精神衛生法」というものだ。
この「精神衛生法」というのは、田中純氏の「巻末エッセイ──鬼神たちの回帰」に出てくる語彙で、この短い文章からは、ほかにもたくさんの言葉や言い回しを拾い集めることができた。
ここにそのいくつかを抜き出しておくと、まず、「この作家=画家にとってタブローとはさまざまな情念[パトス]の顕現、つまりパトファニーであり、それはすなわち、神々の顕現[テオファニー]にほかならなかった」という評言は、「見せ物神学」や「演劇的神学」といった言葉ともあいまって、クロソフスキーという謎めいた人物の作品の本質を衝いて余すところがない。
(余すところがないなどと、これまで曲がりなりにも読み通したのは『生きた貨幣』くらいなもので、それも訳者・兼子正勝氏の懇切的確きわまりない解説を手がかりに這々の体で読了した程度でしかないのによく言うよなあと、これは自戒の言葉。)

《彼のタブローは、不可視のダイモン=情念を男女の神々の似姿によって模造し、ダイモンをその似姿のなかへと誘惑して祓うための手段である。タブローを描き、偶像[シミュラクル]を造ることとは、ダイモンとしての妄執的な情念、そのファンタスムに対する悪魔祓いの策略なのだ。それは魂のトポロジーとしての「情念の論理[パトロジー]」に基づいた、一種の実践的な精神衛生法である。クロソフスキーが鉛筆ないし色鉛筆によって実物大の人体の希薄なシミュラクルを際限もなく繰り返し描き出し、小説中のエクフラシスで架空の画家の作品を詳述するのは、ダイモンに対してそんな罠を仕掛けるためにほかならない。この罠を通して、日常的な言語記号によっては伝達しえない情念が、眼に見えるファンタスムとして顕現する。肉体を得ようとして罠に陥るダイモンたちの、「かくも不吉な欲望」……。》(156-157頁)

こういう文章に接するのは久しぶりだ。実に心地よい「気分」が漂っている。
「エクフラシス」という言葉は、今回初めて知った。
平凡社ライブラリー版の訳者あとがきによると、それは「絵画の描写もしくは記述を言葉でおこなう」(151頁)ことなのだそうだ。
この訳者による二つのあとがきにも「気分」は濃厚にたちこもっていて、田中純氏のエッセイとあたかも二重奏のように響き合っている。
ジッドが『贋金つくり』で使った「中心紋の技法」や、この作品に登場する「シミュラクル」という語が後のクロソフスキーにつながったことなど、驚くべき事実(私が知らなかっただけのことだが)も初めて知った。
というわけで、本体はまだ読んでいない。
クロソフスキーのデッサンをしばし眺めた程度で、正真正銘、本物の「気分」のただ中にわけいるには、時と場所を選ばなければいけない。