パースの宇宙論と坂部恵のヨーロッパ精神史

 伊藤邦武著『パースの宇宙論』の巻末の注をめぐる最後の話題。前回と同じ、第四章「誕生の時」から。


 パースは『連続性の哲学』(岩波文庫)に、「感覚質の宇宙は、それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる」(257頁)と書いた。この、「混沌とした原初的な潜在性→超無限次元の連続体からなる世界→確定的な質の連続体からなる世界」と定式化できる「感覚質の進化」ないし「曖昧な潜在性の縮減(contraction)を通じた現実化の過程」(206頁)をめぐって、伊藤氏は次のように述べる。
 それは、量子論における真空からの対生成やトンネル効果などの考え方に相当するもので、パースに固有の時間の誕生のロジックを解くアイデアである。
 この縮減あるいは縮約という概念は、哲学史上、神秘主義的自然哲学(クザーヌス、ベーメシェリングなど)における「神の縮約」の文脈と、中世普遍論争における普遍と個物の関係の文脈とで語られる。
 前者は、「非物質的な神によって物質的・質料的な世界が創造され、悪や罪が生じる余地が生まれるのは、神が自己自身へと引きこもる縮約という作用による」という世界創造論として現れる。
 伊藤氏は、ここ(208頁)で注をつけている。


《「縮減」「縮約」やこれに類する概念をめぐる考察は、この書[ハーバマスの『理論と実践』]以外にも、ジル・ドゥルーズの一連の著作、とくに『壁──ライプニッツバロック宇野邦一訳、河出書房新社、一九九八年や、坂部恵『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』岩波書店、一九九七年などで広い観点からなされており、この概念が現代の哲学的関心と深いところで結びついていることをうかがわせている。》(『パースの宇宙論』253頁)


 しかし、この注の位置はおかしい。
 縮減あるいは縮約という概念をめぐる哲学史の第二の文脈にもふれた後で、すなわち、「「これ性」は個体化の原理であり、さまざまな共通本性やそのほかの普遍を個体へと「縮減する」作用をもつ」という、スコトゥスの縮減概念についてふれた箇所に注をつけるべきである。少なくとも、坂部氏の著書に言及するのであれば。


     ※
 私は、『ヨーロッパ精神史入門』の第七講「レアリスムのたそがれ」を読んで、はじめて中世普遍論争の意味を知った。また、(自らの立場を「スコラ的実在論」と呼び、ときに「スコトゥス主義」と自称した)パースが、単に記号論のパースだけではなかったことをはじめて知った。


《さて、このように見てくると、一四世紀の哲学のメイン・イシューである、「実在論」と「唯名論」との対立は、通常そう理解されるように、個と普遍のプライオリティ如何という問題をめぐるものというよりは、むしろ、(パースはそこまで明言していませんが)、個的なものをどう捉え、ないしはどう規定するかにかかわるものであることがあきらかになってきます。
 すなわち、個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心なところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか。
 「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにあるとおもわれます。》(『ヨーロッパ精神史入門』47-48頁)


     ※
 三浦雅士氏は、伊藤邦武氏との対談「唯名論から実在論へ」(『大航海』No.60)で、パースのファラビリズム(可謬主義)は、「観念論と唯物論の対立といったかたちで語られてきた[デカルトとヒュームを調停したカント以降の]近代思想の流れそのものを無効にして、かりに何らかの対立がありうるとすれば、それはむしろ唯名論実在論の対立でなければならないとする」(49頁)ものであったと語っている。
 また、岩井克人著『資本主義から市民主義へ』(聞き手=三浦雅士)をめぐって、次のように語っている。


《岩井さんはそこで、中世以来の唯名論実在論の対立が、言語・法・貨幣それぞれの探求においても、たとえば言語における記述主義と反記述主義の対立、法における自然法論と実定法論の対立、貨幣における商品説と法制度説の対立として、繰り返されてきたと言っている。そのうえで、言語も法も貨幣も自己循環論法によって成立しているだけだという事実を示して、その対立をいわば無効にしようとしている。社会的実体という言い方からもわかるように、岩井さんは唯名論者であると同時に実在論者でもある。光は波動であると同時に粒子でもあるというのと同じです。(略)偶然といい習慣といい、岩井さんはおそらくまったくパースは読んでいないと思いますが、基本的なところでものすごくパースに似ている。しかもさらに興味深いことは、言語・法・貨幣は社会的実体であるというその議論は、たぶんいわゆる自然的実体なるものにまでさかのぼって適用できるのではないかと思わせるところです。もそもこの宇宙なるものもひとつの歴史として、つまり一回きりの事件としてあるならば、それもまた一種の自己循環論法のようなものによって支えられているに違いないと思わせるのです。》(『大航海』No.60,55頁)