クオリアと言語と記憶と感情(5)

 「抽象的」の二つ目の意味は何か。
 念のために一つ目の意味を確認しておく。それは言語が構成する概念の性質をいうものだった。たとえば「言語を絶したクオリア」という概念は抽象的である。言語の世界は抽象的概念でかたちづくられている。そういうことだった。
 「抽象的」の二つ目の意味が住まいするのはそのような言語世界と対になる世界、つまり物=身体の世界である。では、体験としての〈クオリア〉が物の世界において「抽象的」に実在するというときの、その「抽象的」とは何か。
 まずトリビアルな事実の確認。
 〈クオリア〉は言語を絶している。なぜなら〈クオリア〉が住まいする物の世界は「不立文字」の世界だからだ。(「不立文字、以心伝心」の世界といってもいいが、その場合の「心」は池谷さんがいうような意味での心、すなわち言葉によって生み出され、意識現象全般がそこにおいて生起する心のことではない。物の世界に「抽象的」に実在する〈心〉のことだ。)
 物の世界は個別具体の世界である。差異の世界である。ただしそこでは、個別具体の物が相互に比較できる共通の土台の上にそれぞれの個別具体性を表現している、といった描像は成り立たない。物の世界とは、そもそも比較を絶した差異性のうちに個別具体の物が端的に実在する世界である。
 比較を絶した差異性は、どのような力をもってしても抽象的概念の「同一性」のうちに移し替えることはできない。だから〈クオリア〉は言語を絶している。(「言語を絶した《クオリア》」という概念は、決して言語を絶した〈クオリア〉そのものに届かない。)
 それでは、そのような意味での差異の世界に住まいする〈クオリア〉が「抽象的」に実在するとはいかなることか。それは「形而上的」に実在するということ以外のなにものでもないだろう。
 不立文字の世界に言葉の定義をもちこむのも奇妙な話だが、個別具体の物の実在を超えているという意味で、〈クオリア〉はメタフィジカルに実在する。それが「抽象的」に実在するということの意味なのではないか。
 ただし、ここまではトリビアルな事実の確認の域を出ない。トリビアルかどうかは措くとしても、ただ言葉を置き換えただけのことにすぎない。物の世界において〈クオリア〉がメタフィジカルに実在するというとき、その「メタフィジカルに実在する」ことの実質を解明しなければ何もいったことにならない。
 ある意味では言語の世界もメタフィジカルである。言語は脳内の神経活動によって「生み出される」。そのように考えるとき、言語は物の世界に属している。しかし、神経活動によって「生み出される」言語の世界そのものは物の世界を超えているといえるからだ。


 ここで「神的言語」というアイデアを導入してみよう。個別具体の物の世界における差異性を、概念としてではなくそれそのものとして名指す言語。名指すというよりは、むしろ個別具体の「それ」を「それ」として実在させる(創造する)言語。(ベンヤミンが「神の言葉」とか「純粋言語」と呼ぶのと同じ種類のものではないかと思うが、確証はない。)
 物の世界において〈クオリア〉がメタフィジカルに実在するとは、そのような神的言語として、かつ神的言語のなかに実在する(創造される)ということだ。神的言語におけるシニフィアンとして、かつそのシニフィエとして〈クオリア〉は実在する。ただ端的に実在する。
 これに対して、一般の言語では、実在する〈クオリア〉(体験としての〈クオリア〉)がそれそのものとして名指されることはない。読み手のうちに〈クオリア〉そのものが実在させられることもない。あくまで(言語の世界を介して見られた)物の世界における差異性としての〈クオリア〉が(言語の世界における)同一性のうちに、つまり概念としての《クオリア》のうちに移し替えられるのだ。(この言語の概念化の力を精錬しつつ、かつ言語が生み出す概念を物的世界に投げ返すことでもって世界を解析しようとするのが科学の言語である。)
 ところで、神的言語は物の世界に対してメタフィジカルにかかわる。ということは、神的言語を生み出す物的過程はないということだ。一般の言語のように、脳内の神経活動によって「生み出される」といったことはない。端的にいって、この世界(物の世界)に神的言語は実在しない。(神的言語が世界のなかに実在しないのは当然のことだ。なぜなら、神的言語はこの世界そのものの創造にかかわる言語だからだ。)
 こうして、三次方程式の代数的解法(カルダノの公式)に登場し、やがて消去される虚数のようなものとして、神的言語はその役割を終える。残されたのは、神的言語が消失した後のメタフィジカルな場だけである。そして、それこそが実在としての〈クオリア〉の棲息地にほかならない。
 本当のことをいえば、神的言語を消去しなくても以下の議論につないでいくことはできる。神的言語を生み出す物的過程など問題にしない論の建て方がありうるし、それに神的言語の物的基盤を問題にするとしても、そもそも脳内の神経活動などにそれを求める義理はないからだ。
 人間の脳が進化するより以前に、いやもっとさかのぼって生命が誕生するより以前に、神的言語を生み出す物的過程を求めることだってできたはずだ。ここであえて神的言語を退場させたのは、自然科学の議論との接続を図る余地を残しておきたかったからである。


 それでは、そのようなメタフィジカルな場に実在する〈クオリア〉を生み出す物的過程とは何か。そんなものは、端的に無いはずではなかったのか。私は、それはあると考えている。
 すべての物的過程がひととおり完了し、同じことが二度、三度と反復されるとき(私の直観では、三度反復されるとき)、そこにもともとの過程にはなかった「同じ」ということが付け加わる。たとえばそうした子供だましのような論理の道筋を通じて〈クオリア〉は生成する。
 いま苦しまぎれに「論理」という語を使った。それはかのヘーゲルの『大論理学』を念頭においたものだった。ヘーゲルはそこで、自然(物的世界)に先立つ存在の論理(ロゴス)の自己展開(自己限定)のプロセスを語っていた。
 また「論理の道筋」とは推論のことで、推論について考えるとき、私はいつもパースを想起する。パースは『連続性の哲学』で、宇宙を探求する私たちの推論のプロセスは、探求の対象である宇宙が従っている論理の道筋(推論)と基本的に同一であるといった趣旨のことを語っていた。(それは、ドゥルーズが『差異と反復』で、世界は神が計算しているあいだにできあがってくると書いていたことと呼応している。)
 まわりくどい言い方はやめよう。私が考えているのは、すべては逆だったのではないかということだ。
 脳が言語を生み、言語が抽象的概念としての《クオリア》を生み出す。しかし、言語は実感としての〈クオリア〉の実在を掬えない。そうではなくて、そもそも〈クオリア〉はそれを生み出す物的過程(推論過程)を論じるより前に、というかその推論過程(物的過程)そのものを駆動する〈形而上的=抽象的概念〉として、あらかじめ物の世界において実在していたのだ。[*]
 もっといってしまうと、その〈抽象的概念〉によって駆動される〈推論過程=物的過程〉を通じて脳が生み出され、その脳のなかの神経活動によって駆動される《推論過程=言語過程》を通じて《抽象的概念》が生み出されたのだ。
(この二つのプロセス、つまり物の世界と言語の世界における二つのプロセスをつなぐ物的媒介として、なぜ脳という器官が選ばれたのか。それはおそらく偶然のなせる業だろう。この「偶然」は、西欧社会においてかつて「神の意志」と呼ばれていたものと同類である。)
 これと同じことを「言語」に即して言い換えればこうなる。〈クオリア〉の自己展開(自己限定)の〈物的過程〉において〈言語〉はあらかじめ実在している。これが脳内の神経活動を通じて、《言語》の自己展開(自己限定)の《推論過程》を通じた《クオリア》の生成へと翻訳される。
 ここにいたってようやく、私は、池谷さんの「クオリアとは抽象的なものである」という主張に「最終的に」賛成できる。


[*]ここで述べたのと同じ趣旨のことを、パースはもっと詩的で説得力のある文章で語っている。


《われわれが現在経験する色、匂い、音、あるいはさまざまに記述される感情、愛、悲しみ、驚きは、すべて太古の昔に滅びたもろもろの質の連続体から遺された残骸であると考えざるをえない。それはちょうど廃墟のそこかしこに遺された円柱が、かつてはそこにいにしえの広場があって、バシリカ聖堂や寺院が壮麗な全体をなしていたことを証言しているのと同じである。しかし、その広場が実際に建立される以前にも、その建築を計画した人の精神のうちには、ぼんやりとして不十分な現実存在があったことであろう。まさしくこれと同様に、わたしはあなた方に、存在の初期の段階には、現在のこの瞬間における現実の生と同じくらい実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだと考えてもらいたいと思う。この感覚質の宇宙は、それぞれの次元間の関係が明瞭になり、縮減したものになる以前の、もっとも初期の発展段階において、さらに曖昧な存在形態をもって実在していたのである。》(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』257頁)