クオリアと言語と記憶と感情(4)

 これまでのことを振り返っておこう。
 池谷裕二さんが『進化しすぎた脳』に気になることを書いていた。それは次の三つの主張にまとめることができる。


1.クオリアとは抽象的なものである。
2.抽象的なものは言葉が生み出すのだから、クオリアも言葉によって生み出される。
3.クオリアは言葉によって生み出される幻影・夢・幽霊であるが、幻影・夢・幽霊としてのかぎりで実在する。


 第一の主張について、私は、概念としての《クオリア》が抽象的なものであることに基本的に賛成できる。これと同じ理由から第二の主張についても、そこでいわれる「クオリア」が(体験としての〈クオリア〉のことではなく)概念としての《クオリア》であるかぎりにおいて賛成できる。そして、そのかぎりにおいて第一の主張と第二の主張を三段論法で結びつけることにも賛成できる。そう書いた。
 しかし、そうだとすると第三の主張が浮いてくる。抽象的概念としての《クオリア》は言語の世界において一定の機能を果たす。この当然のことをいうために、なぜ「言葉の幽霊」が「実在」するなどと紛らわしい表現をするのか。
 もう一度池谷さんの発言を丁寧に見ておこう。
 まず「クオリアは神経の活動の副産物でしかない」と池谷さんはいう。これは「自由意志は潜在意識の奴隷にすぎない」の「自由意志」を「クオリア」に、「潜在意識」を「神経活動」に言い換えたものだ。
 次に「クオリアとは抽象的なもの」であり、「抽象的なものは言葉が生み出すのだから、クオリアも言葉によって生み出される」という第一、第二の主張が続き、その結論として「クオリアは言葉によって生み出された幻影だった」といわれる。


《ここで言う、幻影とは〈実在しない〉って意味じゃないよ。クオリアはたしかに存在する。幻覚や夢と同じ。幻覚や夢は実在するでしょ。夢の存在を否定する人はいないよね。みんなも見たことあるでしょ。夢という〈視覚〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。》


 これを読んで私は、なぜ池谷さんはこんな弁解めいたことをいうのかと疑問に思ったのだ。なぜ端的に「クオリアは言葉が生み出す抽象的概念にすぎない、体験としてのクオリアなど錯覚にすぎず、端的にいって存在しない」と言い切らないのか。
 たぶん言い切れなかったのだろう。それは池谷さん自身が、概念としての《クオリア》では掬いきれない体験としての〈クオリア〉、実感としての〈クオリア〉の存在の影にひきずられているからなのだろう。私はそう考えた。
 池谷さんはここで、クオリアという幽霊は夢と同じものだと発言している。そして「夢という視覚」は脳のなかに存在するのだから、クオリアの体験もまた脳のなかに存在するのだと発言している。
 ところで、言葉もまた脳のなかに存在する。精確にいうと、言葉もまた脳の神経活動の副産物である。池谷さんは明示的にそう語っているわけではないが、おそらくそのような図式を前提にして語っている。
 そうだとすると、ここで一つの問題が立ち上がる。夢も言葉と同様に脳の神経活動の副産物だろう。しからば、言葉と夢の関係はどう考えればいいのか。池谷さんによると、クオリアは言葉が生み出すものだった。これと同様に夢もまた言葉によって生み出されると考えれば、この問題は解決する。
 しかしその場合、クオリアと夢の関係はどう考えればいいのだろう。この点については、池谷さんの発言を文字通りに受けとめればいい。池谷さんは「クオリアは夢と同じように存在する」といっている。これは比喩や類比ではなくて、文字通り「同じ」なのだ。夢の体験はクオリア体験の一種である。そう考えればいい。
 もっといえば、池谷さんがいう「潜在意識」とは脳内の神経活動のことで、この神経活動から直接生み出されるものが言葉である。この言葉は「自由意志」の領域ともつながっていて、そして池谷さんがいう「自由意志」とはおよそ意識現象全般のことのようだから、結局、夢を含めてすべての意識現象は言葉によって生み出される。この「すべての意識現象」のことを池谷さんはクオリア(覚醒感覚)と呼んでいる。こう考えれば、整合性がとれる。[*]
 しかし、池谷さんがいっているのはそういうことだけではない。「クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。」ここでいわれる「喜びや悲しみっていうやつ」は、単なる概念のことではない。
 脳のなかには、言葉が生み出す抽象概念としての《クオリア》だけが存在しているのではない。体験・実感としての〈クオリア〉(喜びや悲しみの実質)もまた存在している。ただしそれは言葉の幽霊として、あくまで「言葉のなかに」存在している。
 池谷さんはそういっている。「でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ」の「でも」は、池谷さんの発言の文脈や本来の趣旨を離れて、「それでも〈クオリア〉は実在する」の「それでも」のニュアンスを(逆転されたかたちで)帯びている。私はそう受けとめた。
 いま「言葉のなかに」と書いた。それは、体験・実感としての〈クオリア〉が言葉から切り離すことのできないかたちで脳のなかに存在する、ということを表現したかったからだ。「クオリア」という言葉のシニフィアンと結びついたシニフィエとして〈クオリア〉は存在する、といいかえても同じことだ。
 抽象的概念としての《クオリア》は、実はいま述べたことを含めて成り立っている。つまり「体験・実感としての〈クオリア〉」というのもまた概念であり、したがって《クオリア》のうちにあらかじめ含まれている。だからこそ、池谷さんは「でも」というのだ。
 〈クオリア〉は物=身体の世界に実在する。でも、言語の世界では、それは《クオリア》として存在する。強引な読み替えであることは百も承知で、私は池谷さんの発言をそのように受けとめた。その上で、先の三つの主張をさかのぼって次のように読み替える。


1.〈クオリア〉とは抽象的なものである。
2.《クオリア》は言葉によって生み出される抽象的概念である。
3.〈クオリア〉は物の世界において実在するが、言語の世界では《クオリア》として存在する。


 このように読み替えた上で、私はそのいずれの主張にも賛成する。このうち第二の主張については、これまでさんざん論じてきた。[**]
 残るのは第一と第三の主張だが、これらは一つにまとめることができる。


 体験としての〈クオリア〉は物の世界において「抽象的」に実在するが、これを言葉で表現することはできない。
 というのも、体験としての〈クオリア〉は言語の世界では《クオリア》という「抽象的」な概念として存在する(言語の世界において、そしてそこにおいてのみ一定の機能を果たす)しかないからだ。


 この新しい主張に二度出てくる「抽象的」は、前段と後段とでそれぞれの意味合いが異なる。後段については「抽象的」の一つ目の意味としてすでに論じた。では、その二つ目の意味とは何か。物の世界におけるクオリアの実在がもつ様相としての「抽象的」とはどのようなものなのか。
 私の現時点での直観を述べておくと、結局のところ「抽象的」の二つの意味は同じことになる。精確には、物の実在の世界における「抽象性」が言語の存在の世界における「抽象性」の原型なのである。つまり〈クオリア〉こそが《クオリア》を生み出している。でも、本当にそうか?


[*]言葉が脳内の神経活動から「直接」生み出されるというのは、神経活動によって生じる脳内の物質交換の過程が、そしてその結果生じる身体の行動との双方向の関係が、実は言語の活動や機能と同じ構造をもっているということだ。
 だから「生み出される」は精確な表現ではない。言語と神経活動とは、少なくとも「潜在意識」のレベルでは、同じ物質過程の異なる描像であるというべきだろう。
 また言葉が自由意志の領域と「つながっている」というのもあいまいな表現だ。
 神経活動の結果としての身体活動には「声に出す」ことが含まれる。この「声に出す」ことが言語の発生の端緒で、それは脳(身体)の内部の出来事を外部に表示することから、そしてまず外部に表示されたものが「声に出した」本人にフィードバックすることから始まった。
 やがて「声に出す」ことは他者とのコミュニケーションや記憶のツールとなり、文字の発明とあいまって自律的な言語の世界がひらけていった。複雑精妙な発声装置をもったヒトにおいて、そして複雑精妙な運動能力を備えた手をもつヒトにおいて、複雑精妙な言語の世界がひらけた。
 池谷さんも次のように語っている。


《「心」というのは脳が生み出している。つまり、脳がなければ「心」はない。でも、体がなければ脳はないわけだから、結局は、体と心は密接に関係していることがわかる。
 そのひとつのポイントとして、二日目の講義で、僕は「言葉」を挙げた。人間は声を自由に操れるようになった。「咽頭」……人間はほかの動物と違って咽頭を持ってるでしょ。咽頭を持ったがゆえに、言葉をしゃべれるように脳が再編成されて、いま僕たちは言葉を自由に操っている。
 これはとても大きな影響を脳に与えた。なぜかというと、言葉というのはコミュニケーションの手段としてあるだけじゃなくて、人間が抽象的な物事を考えるのに必要なツールになったんだ、そういう話をしたね。つまり、意識とか……「クオリア」という言葉を覚えてるかな、覚醒感覚ね。ああいった抽象性、いわゆる「心」を生み出すのは「言葉」である、という話になった。極言すれば心は咽頭がつくったとも言えるんだ。》(349頁)


[**]一言補足する。なぜ《クオリア》という概念が生み出されるのか。池谷さんの説では、そもそも抽象的概念が生み出されるのは、生物として環境に適応するための「汎化」(共通の基底ルールを見つけ出し一般化すること)という、言葉や(言葉が生み出す)心のはたらきゆえであり、クオリアの生成もその一種である。
 その役割は「人間の世界観に色彩を添えたり、他人の感覚を想像したり共感したり」といったことで、「役には立ってるんだけれども、でも、感情というクオリアは脳の活動をダイレクトには決定してはいないと考えたほうがいい」(198頁)。
 これは、悲しみのクオリアが神経活動の副産物でしかないことの説明である。この語り口からうかがえるのは、クオリアの生成には「汎化」がもつ生物進化上の機能を超過した部分があるということだ。他人の感覚を想像したりこれに共感することは生存戦略の上でとても大切な機能だと思うが、世界観に色彩を添えることの方は必ずしもそうではない。
 池谷さんは、人間の脳は環境に適応する以上に過剰に進化してしまったと語っている。そして、この一見無駄とも思える脳の過剰進化は、将来環境や身体そのものが急に変化してもこれをコントロールするための安全装置なのだと語っている(97頁)。
 だとするとクオリアという概念も、少なくともその一部はこうした脳の過剰進化の産物なのかもしれない。そもそも物の世界における〈クオリア〉の実在そのものが、物質世界の過剰進化の産物なのかもしれない。