クオリアと言語と記憶と感情(3)

 クオリアとは抽象的なものである。抽象的なものは言語が生み出すのだから、クオリアも言語によって生み出される。池谷さんのこの主張は、古典的な三段論法にのっとっている。
 だから正しいといえるためには、そこで使われている言葉の定義が同じでなければならない。その点で怪しいのは「抽象的なもの」という語だ。クオリアが抽象的なものであるというときと、言語が抽象的なものを生み出すというときとで「抽象的」の意味が違っている可能性がある。
 そうだとすると、クオリアそのものの意味も違ってくるはずだ。クオリアが抽象的だといわれるときと、言語が生み出す抽象的なものの一つがクオリアだといわれるときとで、同じクオリアという語を使っていながら全然別のものを意味していることになりうる。
 それともう一つ、「抽象的なものは言語が生み出す」という命題は「“すべての”抽象的なものは言語が生み出す」でなければならない。これが「言語は抽象的なものを生み出す」だったら「“一部の”抽象的なものは言語が生み出す」とも読めることになって、結局この推論は間違っていることになる。
 私が池谷さんの発言でもっとも気になったのはこのことだった。結論を先にいえば、池谷さんは間違っていると私は考えている。間違っている理由は、いま述べた点に尽きているが、もう少し丁寧に書いてみる。


 「抽象的」の意味には二つある。その一つは、この語の使用可能領域を言語の世界に限定すること。言葉が生み出すもの、つまり言語的に構成される概念が(そのすべてが、そしてそれのみが)抽象的なものであるととらえる。そうすると、生(なま)の体験としてのクオリアはこの意味では抽象的ではないが、これを「クオリア」と言葉で言い表したものは抽象的であるということになる。
 ややこしいのは、「生の体験としてのクオリア」もまた言葉でそう言い表したものにほかならないのだから、その意味では抽象的なものであるということだ。このことを肯定する場合にかぎって、池谷さんの説は正しい。
(「生の体験としてのクオリアという概念」は抽象的だ。なぜなら概念とは抽象的なものだから。そして抽象的概念はすべて言語的構築物なのだから、クオリアも言語によって生み出される。池谷さんはそう主張していることになる。これだと言葉の使い方が一貫しているし、筋が通っている。)
 ただしそうなると、「生の体験としてのクオリア」が(言語の世界とは異なる)物=身体の世界に実在していることを、自らの意識において現に生々しく体験していることの個別具体性を直接的に表現する言葉などないということになる。それで一向に構わない。脳科学者はそう考える。(そう考える人のことを、そのような思考様式の伝統に棹さす訓練を受けた人のことを自然科学者という。)
 一向に構わないというのは、一つには、客観的に観察できないもの、つまり脳科学者が観察できない主観的な個別具体性を捨象しても世界の描像は不変である、少なくとも脳科学者にとってはそうだということ、いま一つは、「生の体験としてのクオリア」という概念が(そのような個別具体のものを直接的に表現する言葉がないということを含めて)ちゃんと成立しているのだから、その実在を「自らの意識において現に生々しく体験していることの個別具体性」はその概念に託して表現すればよいということ、この二つのことからそういえる。
 でも、それだとあまりに寂しい。人生の実相を科学はつかんでいない。「悲しいから涙が出るのではない、涙が出るから悲しいのだ」と脳科学者は実験データを示してそう断定するが、ほかならぬこの私のこの「悲しみ」の固有性を科学はどう説明してくれるのか。そう嘆く人も、実は脳科学者と同じ思考様式の上にいる。
 「生の体験としてのクオリア」が物=身体の世界に個別具体のものとして実在しているかどうか。脳科学が問うのはそのことではない。それはあってもいい。現に「ある」と言葉で報告する人がいる。そのときその人の身体(脳)においてどのような物質過程が生じているか。脳科学はそのことを問題にする。それを観察・実験して、その結果とそこから得られる結論を言葉で言い表す。それだけのことである。
 これに対して、先ほど脳科学者の思考様式を嘆いた人も、「生の体験としてのクオリア」が現にここに「ある」と報告する人の身体の状況を観察している。もちろん脳細胞の活動状態などを観察することはないが、少なくとも身体の振る舞いや顔の表情や言語表現にこめられた切実さや感情の襞のようなものを観察して、そこに表現された個別具体性をもって「人生の実相」(という概念の実質)を見てとっている。
 脳科学者の場合に話を戻すと、肝心なのは、そのときその人の身体(脳)において生じている物質過程がただその人だけに固有な個別具体のものではないということだ。精確にいうと、すべての人に同じ法則のもとで生じている物質過程だけが脳科学の研究対象であるということだ。そして、物質過程とはそもそもそのようなものなのではないか。もちろん個体差はあるだろう。しかしそれは個体差でしかない。現象としては様々だが原理的には同じ物質過程なのだ。
 この「現象としては様々だが原理的には同じ物質過程」という点が、言語的に構成された概念の抽象性に通じている。「人生の実相を科学はつかめない」と嘆く人も、「人生」「実相」「科学」「つかむ」といった概念を使って、その人の人生だけでなく万人の人生に関する言明としてそういっている。「この私に固有の唯一の生の実相を科学はつかめない」と嘆いてみせても、それもまた万人の「唯一の生」に関する言明でしかない。


 こうした意味での「抽象性」を首尾一貫して使用しているかぎり、池谷さんの主張は正しい。ところが、どうもそうではないようなのだ。
 池谷さんは「クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊だ」といっている。これは「クオリアは言葉によって生み出される抽象的なものだ」という主張と実質的に変わらないはずだ。実質的に変わらないのなら、なぜことさら「幻影」や「夢」や「幽霊」とたたみかけるのか。そしてクオリアの(脳の中での)「実在」を強調するのか。
 それはたぶんこういうことだと思う。池谷さんも「生の体験としてのクオリア」が「自らの意識において現に生々しく体験していることの個別具体性」を直接的に体験しているからなのだ。もちろんそれらの言葉が表現しているのはすべて抽象的概念だということを承知した上で、その概念では掬いきれない実感のようなものを「幻影」「夢」や「幽霊」と呼んでいるのだ。
(いやそうではないというのなら、「幻影・幽霊」ではなくせめて「錯覚」の語を使うべきだろう。端的に、体験としてのクオリアなど実在しない、実在すると思うのは言語がそう思わせている「錯覚」だと主張されていたら、その主張は首尾一貫したものになったと思う。)
 だとすると、池谷さんの主張は正しくは次のようなものになる。体験としてのクオリアを〈クオリア〉と、概念としてのクオリアを《クオリア》と表記していいかえてみよう。(この表記法は永井均オリジナルのものを借用した。)


 〈クオリア〉は個別具体のものだと思われているが、実は〈クオリア〉とは抽象的なものである。ところで抽象的概念は言語が生み出すのだから、《クオリア》も言語によって生み出される抽象的概念である。


 これは明らかに間違った推論である。〈クオリア〉という体験が抽象的であることと《クオリア》という概念が抽象的であること(言語的構築物であること)とは別の話だ。これを同じ「抽象的」の語でつなぐのは間違っている。というより、ここに二度出てくる「抽象的」の意味はそれぞれで違っている。
 この主張は二つに分けて考えないといけない。私は、基本的に《クオリア》が抽象的であることに賛成できるし、また最終的には〈クオリア〉が抽象的であることに賛成したい。「最終的に」と限定がつくのは、「抽象的」の二つ目の意味が確定できればという趣旨である。
 それでは、「抽象的」の二つ目の意味とは何か。