クオリアと言語と記憶と感情(2)

 まず、クオリアが「抽象的なもの」であるという説をめぐって。
 基本的に、というか最終的に、私はこの考えに賛成したい。プロの脳科学者に向かって、市井の一素人が「賛成したい」もあったものではないと思うが、これは十代の理系の中高生を相手にしたゼミでの発言だし、要は言葉の用法の問題なのだから、そこに素人が口をはさむ余地はあるというものだ。
(「十代の理系の中高生を相手にしたゼミでの発言」だから、気軽でいい加減なものだといいたいのではない。そうではなくて、厳密な定義と使用法が人為的に定められた術語ではない、常識的な語の使用例であるといいたいのだ。)
 基本的に賛成できる理由は、いま述べた「言葉の用法」という点につきる。どういうことかというと、たとえば「私は悲しい」という言葉の中にクオリアは無い、その意味で悲しみのクオリアは抽象的なものである。
 もう少し丁寧にいうと、私が「悲しい」と思うとき、私にとってその悲しみのクオリアは切実なものとして実在する。それが「クオリアという概念」の定義である。しかし他人はその(私の)悲しみのクオリアを感じない。つまり他人にとってその(悲しみの)クオリアは端的に無い。これもまた「クオリアという概念」のうちに含まれている。
 そして、「クオリアという概念」はこの両方の場合を共に含むものとして、いいかえれば他人もまた「私」になりうるという可能性を織り込んだものとして成立する。そういう個々の具体例を離れて成立するもののことを「抽象的なもの」という。
 ここでいう「抽象的なもの」とは実は言葉のことである。つまり、一方に個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物の世界があって(この「物」には身体が含まれる)、もう一方に物の世界から切り離された言語の世界がある。言葉は物の世界に属していないという意味で抽象的なものである。だからクオリアも、それが「クオリアという概念」として語られる場合は抽象的なものである。
 以上が、基本的に賛成できる理由だが、いや、それでも私のクオリアは個別具体のものとして、言葉を超えて実在する(抽象的なものではない)という、個別具体の実感に即した主張に対してどう対応するかで、その帰結が分岐する。


 第一の方向。
 あなたが「私のクオリア」と呼ぶものは、たしかに物の世界における個別具体の出来事として実在するのでしょう。私自身のクオリア体験から、確信をもってそう推測できますよ。でも、あなたのクオリア体験と私のクオリア体験とはまるで違うものですよね。そこには「差異」があります。
 ただしこの差異は、同じ種類の元素の化合物なのにそれぞれの元素の含有割合の違いでまるで質の異なる物質ができるといった、直接観察したり実験で確かめることのできる共通の土台のようなものの上にある差異ではなくて、そもそも相互に比較できない類の差異です。
 だって、端的にいって私はあなたではないのだから、どう加工してもあなたのクオリアを直接体験できるはずがないでしょう。私のクオリアをあなたが直接体験することもできませんね。そして、直接体験できないものを比較することなんてできません。もちろん科学者にだってできません。(むしろ、科学者だからこそできないというべきでしょう。)
 これほどまでに違う、本当は「違う」と言葉に出してさえいえないほど異なるものをめぐって、私とあなたがコミュニケーションを図るためには、それぞれの「私のクオリア」の個別具体性を言葉という抽象的なものに託すしかないじゃないですか。なぜかしら言葉は、差異性をもった個別具体のものを抽象的な同一性のうちに移し替える力をもっているのですから。
 では、それでも私のクオリアは個別具体のものとして実在するという、個別具体の「私の実感」の方はどうなるのか、とさらに重ねて問われるかもしれませんね。でも、それは別にどうともなりようがないですよ。ただ、言葉でいくらそう語っても「私の実感」を直接名指すことはできません、と答えるしかないですね。
 あなたがいわれる「私のクオリア」にせよ「私の実感」にせよ、私にはそれらの実在を否定することはできません。そもそも肯定することさえできないのですから。ただ、それらの言葉を私とのコミュニケーションの場で使われても、私に伝わるのは「抽象的なもの」でしかないですよ。
 もしそういう言葉を(「私のクオリア」や「私の実感」を直接名指すものとして)使いたいのなら、どうか自分のためだけにお使いください。たとえば誰にも読ませない「クオリア日記」のようなかたちで。(大切なことは、誰にも読ませないということです。もしも私があなたの「クオリア日記」を読むと、そこには「抽象的なもの」としてのクオリアや実感しか書かれていないことになってしまいますから。)
 私にいえることは、脳科学者の実験によると、被験者がなにがしかのクオリアを体験しているときに、いやそれにほんのわずか先だって、その人の脳細胞のある特定の部位が発火していて、それはどうやらすべての人間に共通した物質過程であるらしいということだけです。
 だから、「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」において、あなたが「私のクオリア」や「私の実感」と呼んでいる何かが生起しているのであろうことは推測できますが、結局、それらを「私のクオリア」や「私の実感」として直接体験することは私にはできない。言葉にされたそれらは「抽象的なもの」でしかない。同じことをくどくど繰り返して恐縮ですが、やはりこのことは決定的なのではないですか。
 あと一つだけ私にいえることがあります。「私のクオリア」や「私の実感」という言葉は、この私に対してだけは個別具体の体験を直接的に名指している。私の「クオリア日記」を私が読むときにかぎり、私はかつての「私のクオリア」や「私の実感」を直接想起することができる。このことの方がもっと決定的ですね。
 ですから、あなたが「私のクオリア」といい「私の実感」というのも、実はもともともこの私が使っていた言葉の模倣なのではありませんか。なぜかしら、この私の使っていた言葉に「差異性をもった個別具体のものを抽象的な同一性のうちに移し替える力」がこもって、あなた方がいま使っている言葉になったとしか私には思えません。
 クオリアは抽象的なものであるという池谷さんの説に同意はしますが、それはこの私の場合を除いてのことです。だから、この私の「私のクオリア」が「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」において生成することは、言葉では形容できないほど驚異的な出来事なのですよ。(永井均さんがよく使われる言葉でいえば「奇跡的」な出来事です。ただし、永井さんがどうしてこの私についてのみ生じた「奇跡」のことをご存じなのか、私には不思議ですが。)そうは思いませんか。


 第二の方向。
 いや、それでも私のクオリアは個別具体のものとして実在する(抽象的なものではない)と、君がそう主張したくなる気持ちはよく判る。でも君がいう「私のクオリア」は、君がそう主張したくなるようなものとして言葉がこしらえた抽象物でしかないのだよ。いってみれば言葉が見る(見させる)夢のようなものだね。
 「悲しみ」という言葉がなければ、そもそも「悲しみのクオリア」をともなった体験が立ち上がることもない。そんなことは実は君だってとうに知っているはずだよ。本当のことをいってしまうとね、「個別具体の感覚や感情がそこにおいて立ち上がる物=身体の世界」だって、それもまた言語の世界の中のことでしかないんだよ。なぜかしら言語は、そんな「奇跡」のような力をもったものとして存在している。


 冒頭に書いた、クオリアが抽象的なものであるという考えに「最終的に」賛成したい理由は、そこでいう「抽象的」の意味をどうとらえるかにかかっている。
 いままで書いてきたところでは、個別具体的な物の世界と対比させた言語の世界の特質を「抽象的」ととらえた。抽象的なものは言葉が生み出したものだという池谷さんの説によりそってみたわけだ。
 この意味での「抽象的なもの」とは、「差異性をもった個別具体のものを同一性のうちに移し替える力」をもった概念のことだ。「クオリアという概念」が抽象的であるのは、言葉の定義からして当然のことだ。
 ただこのような解釈だと、池谷さんの第三の説、「クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊であるが、幻影・幽霊としてのかぎりで実在する」の意味がつかみにくくなる。
 クオリアは抽象物だが実在する。池谷さんはそういっている。抽象物は言語の世界に属するのだから、それが実在するということの意味がよくわからない。実在を云々できるのは個別具体の物の世界のはずだからだ。
 クオリアは言語が制作する抽象物だが実在するという池谷説を合理的に解釈するためには、実在との関係が整合するように「抽象的」の定義を変えなければいけない。
 そういうことだから、クオリアが抽象的なものであるという池谷さんの第一の説に「最終的に」賛成したい理由については、「抽象的なものは言語が生み出すのだから、クオリアも言語によって生み出される」という池谷さんの第二の説について考えたあとで述べることにする。
(もしかすると、その段階では、実は「最終的に」賛成できないということに考えが変わっているかもしれないけれど。)