クオリアと言語と記憶と感情(1)

 池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』(朝日出版社)に、ちょっと気になる発言が出てくる。
 ある「単純な意識の実験」(脳波をモニターしながら脳の活動を調べる)によると、運動前野が動き始めて1秒も経ってから「動かそう」という意識が現われた。(リベットの実験結果はたしか〇・五秒だったと記憶しているが、それはそれとして、とにかく)、「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」というクオリア(「「動かそう」と自分では思っている」クオリア)が生まれた。つまり、自由意志は潜在意識の奴隷にすぎない。
 この事実から、クオリアが脳の活動を決めているのではなくて、無意識の脳の神経活動が運動を促し、その一方でクオリア(「動かそう」という意識や感覚)を生み出している、ということがわかる。
 感情についてもこれと同じことがいえる。もっとも原始的な感情は「恐怖」だが、この恐怖の感情は偏桃体が活動することで生まれる。だが、偏桃体そのものには感情(クオリア)はない。感情は別経路の大脳皮質で生まれる。偏桃体自体は、危険な行動は避けるという記憶を強固にするはたらきをする。動物は「こわいから避ける」のではなくて、偏桃体が活動したから避けている。
 ここで使われる「クオリア」の多義性(感覚や感情や自由意志や自己意識その他諸々の感じや思い、つまり意識と同義)もちょっと気になるが、それは定義の問題だと割り切ることにして、その後につづく箇所にもっと気になる言い方が出てくるので先を急ぐ。


(言葉の定義の問題だと割り切ってしまうのはちょっと気持ちが悪いので、少しだけ補足しておく。
 クオリアの問題がこれほど「一般的」になったのは、私の知るかぎり、茂木健一郎さんの『脳とクオリア』以来ではないかと思う。で、この本がクオリアをどう定義していたかというと、現物が手元にないので確かなことはいえないが、観察可能な「心理」と現象学的な「意識」とをまず分けて、その意識をクオリアと志向性の二つの概念でとらえるといった感じだった。
 そこでは感覚的なものにともなう生々しい質感というクオリアの本籍が明確にされていて、たとえば永井均さんのいうメタフィジックな独在性の〈私〉について言及された箇所では、慎重にクオリアの語は避けられていたと記憶している。茂木さんが『脳とクオリア』以後に書いた本では、クオリアと志向性に加えて主観性の語で〈私〉の問題を扱っていたと、これもそう記憶している。
 最近の茂木さんがクオリアをどう定義しているかは知らないが、少なくとも「初期」の茂木さんは慎重に対応していたと思う。)


《…おそらく「悲しみ」を感じさせる〈源〉になる神経細胞がきっとあるんだろう。そこが活動すると「涙が出る」という脳部位に情報を送っている。でも、その涙の経路と「悲しい」というクオリア自体は直接は関係がない。つまり、悲しみのクオリアが涙を誘発しているというのは、ちょっとニュアンスが違う。悲しみとはクオリアにすぎないんだ。つまり、神経の活動の〈副産物〉でしかない。
 もっと言っちゃおう。クオリアとは〈抽象的なもの〉だよね。「こわい」とか「悲しい」とかって、抽象そのものだ。今日の講義のテーマでもあったけれども、〈抽象的なもの〉は言葉が生み出したものだったね。つまりは、クオリアもまた言葉によって生み出された幻影だってわけだ。
 ここで言う、幻影とは〈実在しない〉って意味じゃないよ。クオリアはたしかに存在する。幻覚や夢と同じ。幻覚や夢は実在するでしょ。夢の存在を否定する人はいないよね。みんなも見たことあるでしょ。夢という〈視覚〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだ。》(192頁)


 クオリアは脳の活動がつくりだす。それも副産物としてつくりだす。では脳の活動の本務は何かというと、それは運動である。涙が出ることも運動である。
 ここまではいい。脳科学者なら当然そう考える。「副産物でしかない」という言い方は少し気になるが、クオリアが生み出されるのは、自由意志としての脳に(環境適応)運動への切迫感をもたらし、また運動の記憶の定着へ向けた強度を高めるためなのだ、クオリアの生成を待ついとまがないほど差し迫った状況では、潜在意識としての脳が勝手に行動を指図し、また記憶を強固にするのだ、といったような説明を補えば、それなりに理解できる。
 でも、後半の議論はかなり気になる。そこでは三つのことがいわれていた。クオリアとは抽象的なものである。抽象的なものは言語が生み出すのだから、クオリアも言語によって生み出される。クオリアは言葉によって生み出される幻影・幽霊であるが、幻影・幽霊としてのかぎりで実在する(つまり、幻影・幽霊としてのかぎりでクオリアはその機能を果たす)。
 以下、順次見ていこう。