『神と自然の科学史』

川崎謙『神と自然の科学史』読了。こういう本を読みたかった。
第Ⅰ部で、ロゴス(言葉=神)の枠組みの中で展開された西洋形而上学と西洋自然科学(自然哲学)の歴史が簡潔的確に叙述される。
これと対比させながら第Ⅱ部では、道元によって日本的に変容された諸法実相の枠組み(五感にふれる万物にカミの霊性の「活らき」をみる神道的心情)における自然の実質があますところなく摘出される。
漱石の作品から安藤昌益『刊本・自然真営道』序へ、親鸞自然法爾書簡」、道元正法眼蔵』第四三「諸法実相」、『臨済録』といった仏教書、はては吉田兼倶唯一神道名要集』、山脇東洋『蔵志』、杉田玄白蘭学事始』へと、原典を参照しながら、西洋的世界観という鏡がなければたぶん見えなかっただろう「日本自然科学」(著者がそういう言葉を使っているわけではない)の過去とそのありうべき未来への見通しを描く後半部が素晴らしい。


「アヒル‐ウサギ図」というものがある。
ゲシュタルト心理学者のJ・ジャストローが考案した図で、左を向いたアヒルと右を向いたウサギが合成されてできている。
ヒル文化人(古代ギリシャ人の方法で考える西洋人)はこれをアヒル(ネイチャー=神の被造物)と言い、ウサギ文化人(「ことあげせぬ国」の日本人)はこれをウサギ(自然=無上仏)と見る。
それ自体はインクのしみにすぎない無意味な素材が、言語のなかに織り込まれた世界観を通じて二つの秩序に分岐する。
ネイチャーという書物に隠された神の創造の秘密を読み解き、自然「を」学ぶアヒル文化人。
「われわれに隠されているものはなにも存在しない」と考え、自然「に」学ぶウサギ文化人。
後者にとって実験とはエクスペリメントではなくエクスペリエントであり、観察するとはオブザーブではなくコンテンプレートである。
源信の説く念仏は仏のすがた(色相)を観察することであった」(中村元『日本人の思惟方法』)。
いま、任意にとりだしたのは本書の議論のほんの一例にすぎない。