最近買った本・読んだ本

最近買った本。
その1.『小林秀雄対話集』(講談社文芸文庫)。
9月に刊行されたときから、いずれ購入して読むことになるだろうと思っていた。
実際、翌月ほとんど買いかけていたのにレジに向かう寸前になって気が変わり、結局『柳田國男文芸論集』を選んだ。
『文芸論集』には、小林秀雄が講演「信ずることと知ること」でとりあげた『山の人生』について自ら語る一文が収められているので、まんざら関係がないわけではない。
年末年始の休みを、小林秀雄柳田國男で過ごすことにした。手にした『対話集』は12月1日発行で第五刷。よく売れているのだ。


その2.ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』(岩波文庫)。
木田元さんによると、ハイデガーのネタ本。
6月に書店で見かけたときに速攻で買っておくべきところ、なにかの事情で他日を期したらいくら探しても見当たらなくなった。
入手したのは9月24日発行の第四刷。この本もよく売れている。


そのほか、アルフレッド・ヒッチコックのDVDを買ってまだ観ていない。
『恐喝(ゆすり)』『バルカン超特急』『汚名』『白い恐怖』『三十九夜』『疑惑の影』『海外特派員』『見知らぬ乗客』の8枚で(オードリー・ヘプバーンの『ローマの休日』もついでに買った)、『レベッカ』と『ロープ』はもう買って観たから、現時点で入手できる500円DVDのヒッチコックは全部そろう。
そのうちまとめて観るつもり。
映画とあわせて読もうと思って、スラヴォイ・ジジェクの『ヒッチコックによるラカン──映画的欲望の経済[エコノミー]』を図書館から借りてきた。


     ※
最近読んだ本。
その1.佐々木力『数学史入門──微分積分学の成立』(ちくま学芸文庫)。
やや期待がはずれた。
「ユーラシア数学」という聞き慣れない言葉に胸躍らせて、驚愕未聞の精神史的考察の書をイメージし、勝手な期待を膨らませすぎたのかもしれない。
それでも、本書からは十分な刺激を受けた。
その一端を記録しておくと、ギリシャ数学には証明や理論の公理論的整序の側面とともに発見的側面があり、前者は「総合」(シュンテシス:synthesis=composition)、後者は「解析」(アナリュシス:analysis=resolution)という語彙と結びつけて理解される(53頁)。
ここに出てくる‘composition’は「結論」の章での音楽の話題と響きあう。
十二音技法とブルバキズムの類比性(203頁)。
数学における言語的思考様式の転換と音楽における「様式」(Stil;style)の変容の類似性(207頁)。
また‘resolution’は非ギリシャ世界がもつ具体的・実践的な真理観、たとえば中国のプラグマティックな数学観につながる。
それはニーチェの「力への意志」の発現たる「歴史内存在」としての数学にもつながっていく(211-212頁)。
このあたりのことは、今後ボディブローのように効いてくるだろう。


その2.小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』(岩波新書)。
八人の俳人による二日間の句会の全記録。
仕掛け人兼評者兼記録者の小林恭二の文章が実にいい。
俳句評がいい。俳人評がいい。俳句史の挿入もいい。
コンテンツ一つひとつに藝と味があり、配列編集に妙と技がある。
ルポルタージュ(句会録)として出色。
あまつさえ、そこには俳句という切り口からなされた現代の文芸のあり方に対する鋭い批評がある。
「わたしは現代俳句が半ば意識的にこのコミュニケーションとしての句会、つまり全員が同じ立場に立って俳句を流通させる句会、をおろそかにしたことは、一種痛恨事だと思っている」(249頁)。
しかし「コミュニケーションとはある種の結果であって、目的ではない」(252頁)。
それでは、句会の目的とは何か。
答えは簡単である。
いわく、大人の遊びの空間。すなわち、座。
収められた全句中、飯田龍太の「百千鳥雌蕊雄蕊を囃すなり」が強く記憶に残った。
この句そのものより、高橋睦郎の評「その句面白いね。なんか伊藤若冲の絵みたいで」の印象が強烈。


今年は歌の凄さに目覚めさせられたが、俳諧の世界も深い。
『新々百人一首』(丸谷才一)につづきほぼ毎夜就眠前に読み進めてきた『完本 風狂始末』(安東次男)は「狂句こがらしの巻」がようやく終わった。
とても適わない。凄すぎる。深すぎる。
しばらく休み、萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』を読んでいる。
「うは風に音なき麦を枕もと」の評釈にこう書かれている。
「俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な連想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的に先ず俳句や和歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何なる「新しい詩」においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。」(50頁)


そのほか、折口信夫『日本藝能史六講』(講談社学術文庫)と三浦展団塊世代を総括する』(牧野出版)と池谷裕二糸井重里『海馬──脳は疲れない』(新潮文庫)と山口瞳開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)と星野之宣『宗像教授伝奇考』第一巻と星野之宣自選短編集『MIDWAY 歴史編』と同『宇宙編』と館淳一『触診』(幻冬社アウトロー文庫)を読了。
川崎謙『神と自然の科学史』と北沢方邦『音楽入門』も読んだが、これらは改めてとりあげる。