最近読んだ雑誌──『中央公論』『文藝春秋』

総合雑誌といわれるものを、たまには読む。


●『中央公論』1月号。


甲野善紀内田樹の対談「“学び”とは別人になることだ」を読んだ。
ここには叡智の言葉が惜しげもなく鏤められている。
学びとは商品の売買ではない、「本当の意味での学びのプロセスでは、学ぶ前と後では別人になっている」、だから「これを勉強して何の役に立つんですか?」と問う子どもに、大人=教師は「僕はこれから君たちの語彙に今存在しないもの、あるいは君たちの価値観では価値として認知されたことのないものを伝える。語彙にないことだから、それが何の役に立つのかを君は決して自分で自分に説明することができない。だから、黙って聞け」と告げることしかできない、と内田。
小学校は国語と歴史と体育があればいい、国語はコミュニケーションを取るために絶対必要、あとは理科も算数も社会も全部歴史の中で「人間が何を発見し、何をやってきたか」をまとめて、しかも体を通して学べばいい、体育とは「体を通して表現や、モノを感じることを学ぶ」ということだ、また学校では宗教とは何なのかを考えさせるべきだ、空海が唐で学んだことやなぜ親鸞法然にこだわったかなどをもっと踏み込んで教えるべきで、「人が生きるとは何なのかを考えさせないと、学びの意味がない」、と甲野。


養老孟司の連載「鎌倉傘張り日記」は「「先生」が成り立たない時代」と題して、内田樹の『先生はえらい』を絶賛している。
「つい先日、体育学会で講演したら内田氏が来ていた。仏文科の教授がなんで体育学会なのだ。もっとも他人のことはいえないので、死んだ人を解剖していた人間が、なんで体育学会なのだ、死んだ人の体はもう育たない。
 つまり先生とはそういうものなのである。なにがどういうものか、さっぱりわからないであろうが、内田氏は合気道もやるのである。私はそういう類のものは一切やらない。虫を捕るだけである。それも上手ではない。虫捕りなら私より上手な人はいくらでもいる。
 武道家としての内田氏は、先を取ることにかけては専門家である。それをとことん詰めていくと、内田流教育論ができる。それが『先生はえらい』なのである。」


そのほか、鷲田清一「〈老い〉はまだ空白のままである」も読んだ。
「〈老い〉は、…できないことが一つひとつ増えてくる時期であるとともに、みずからの〈死〉への待機の時期でもある。自分が待機中であることが、じわりじわり意識されるようになるのが、〈老い〉というものである。なのに、〈老い〉を一人ひとりがどのように迎えるかが問われるよりも先に、〈老い〉が匿名のままで、まずは「問題」としてしか話題にならないのは、いったいどういうわけか。」
最後に引用された中井久夫(『看護のための精神医学』)の言葉。
「成熟とは、『自分がおおぜいのなかの一人(ワン・オブ・ゼム)であり、同時にかけだえのない唯一の自己(ユニーク・アイ)である』という矛盾の上に安心して乗っかかっておれることである」。


●『文藝春秋』1月号。


養老孟司司馬遼太郎さんの予言」を読んだ。
このところしばらく遠ざかっているけれど、司馬遼太郎の文章にはまると中毒になる。
一つの小説、エッセイ、紀行文、講演、対談、なんでもいいが、読んでも読んでも読了感が伴わない。
司馬遼太郎という巨大な作品があって、あたかもそれはその人が一秒ごとに一文字ずつ刻むことで編纂された無尽蔵の活字の連山であるかのようなのだ。
(ためしに計算すると、50年間文字通り寝食を忘れて書きつづけたとしたら、400字詰めで400万枚に達する。)
だから一冊読み終えると、連載小説のつづきを読むようにして次の書物へ、さらに別の書物へと、怒濤の数珠繋ぎに邁進してしまう。
こういうのを「司馬漬け」と名づけてきた。
養老孟司の文章にもそれに似たところがある。
なにを読んでも、いくら読んでも、一つの巨大な生きた作品のほんの一部を読んでいるにすぎないようなもどかしさ、というか未読了感が伴って、次から次へと手を出してしまう。
そこには、あたりまえのことだが、養老孟司にしか書けない文章の質、人格ならぬ文格、「養老節」というしかない文体がある。
なにを読んでも結局同じことしか書かれていない。
そう言ってしまうとかなりニュアンスが違う。
なにか「原理」と呼びたい言葉以前の身体のあり様に根ざした論理の湧出点があって、そこから事象に即してこんこんと言葉が湧きだしている。
それが、司馬遼太郎養老孟司に共通するものだ。
司馬遼太郎さんの予言」からそれを言い表した言葉を拾うならば、「相対思考」(神=絶対にもとづく西洋的思考に対する、如来=相対にもとづく日本的思考)、世間知と結びついた柔軟な「無思想の思想」、「リアリズム」、身体を目一杯使って感覚で生き抜く「職人的発想」、そして「大きな耳」(人には「口の大きな人」と「耳の大きな人」の二つのタイプがある、と養老さんは書いている)といったところだろうか。
「『街道をゆく』がその典型だが、司馬さんは実際にその場に足を運び、対象の前に立ち、何かを見て、何かを感じることを大切にしていた。その「大きな耳」で、過去の膨大な資料から聞こえてくる音を漏らさず聞き取りながら、「大きな目」で視野に飛び込んでくる光景を捉え、自分の考えを養っていた。
 私もまた、全国各地に講演に出かけ、ブータンなどに逃げたりしては、道端や森の植生などをじっと見ている。私にとってそれは「解剖」の一環で、対象は人体だろうが自然だろうが手法は変わらない。私と司馬さんの似ているところは、案外このあたり、「よく見る」というところにあるのかもしれない。そういう意味で司馬さんは社会学者、いや、もっといえば科学者に近い目線を持っていたように思う。」


そのほか、「世界に輝く日本人20」の中の「ハルキ文学は三島を超えた」を読んだ。