紅葉狩り・新々百人一首・後鳥羽院

京都に紅葉狩りに出かけた。
JR山崎駅を降りて、山崎宗鑑句碑(「うずききてねぶとに鳴や郭公」)と霊泉連歌講跡碑を片目に、アサヒビール大山崎山荘美術館への坂道を急ぐ。
本館で『益子 濱田窯三代 庄司・晋作・友緒』展を観て、テラスで珈琲を啜り、安藤忠雄設計の新館「地中の宝石館」でモネの「睡蓮」やルオーの絵などを見て、庭園を散策した。
少し電車で移動して、西国二十番札所の善峯(よしみね)寺、別名松の寺の境内を参拝。
「野をもすぎ山路にむかふ雨の空よし峯よりも晴るる夕立」。
松と紅葉、武家と王朝貴族の対比が面白い。
奥の院薬師堂に向かう山路から見下ろした紅葉は絶景。
こういう風景を目にすると、形容する言葉が思い浮かばない。
また山崎にとってかえして、サントリー山崎蒸留所を訪ねる。
樽出原酒15年ものを試飲し、イルミネーションの点灯を見届け、すっかりできあがって帰宅。
一年分の紅葉を堪能した。


     ※
丸谷才一『新々百人一首』(新潮文庫下巻)読了。
四季歌をあつかった上巻を読んでいた時は、連日、陶酔に次ぐ陶酔だった。
下巻に入って、恋歌[こいか]のあたりで王朝和歌の遊戯性が薄っぺらなものに感じられるようになった。
唐木順三の『中世の文学』を読み囓ったことも影響したか。)
言葉の多義性と呪術性をとことん活用し、二重三重に意味の層を重ね描いていくパランプセストとしての王朝和歌。
それが薄っぺらだと感じるのは、読み手の言語感覚が硬直していたからだろう。
読み手の側の心のありよう、というか身体のありようがそこに反映していたに違いない。
丸谷さんは、遊戯性を必ず社交性とセットで取り上げている。
「呪術としての詩はやがて社交の具としての詩となり、さらには藝術としての詩へと進化する──もちろん呪術といふ要素を幾分かは残したまま」(113頁)。
この「社交性」は、松岡心平さんが『宴の身体』で連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は文芸における「一揆」的場であったと書いていたことにつながる。
森岡正芳『うつし 臨床の詩学』の「対話的倍音」や坂口ふみ『〈個〉の誕生』の「概念のポリフォニー」にもつながる。)
会話が弾んで、何を言っても聞いてもおかしくておかしくて、笑いがこみあげてとまらなくなることがある。
「天使が通る」とか「三人寄れば文殊の知恵」という言い方があるが、その時その場にたちこめている言葉は、私の言葉でも座を共にする相手の言葉でもない。
非人称、無人称、多人称の次元から響いてくる、もしくは洩れてくる言葉に酔っている。
躰が言葉に動かされていく。
王朝和歌の「社交性」とは、たとえばそのような体験のうちに今も息づいているのかもしれない。
薄っぺらに思えた王朝和歌がほんの数日でもとの輝きをとりもどし、その後は最後まで一気呵成に愉しめた。
丸谷才一の文筆の冴えは恐ろしいまでの域に達している。
源実朝の「いつもかく寂しきものか葦の屋に焚きすさびたるあまのもしほ火」をとりあげ、「現代短歌はこの一首にはじまる」と記す(221頁)。
「もともと和歌は単にテクストを読むだけでは充分でなく、そのテクストをマージン(欄外、余白)のやうに囲み込む作歌事情まで視野に入れるとき、はじめて十全に理解できるたちのものであつた」。
なぜか。第一に、和歌が極端に短い詩形だからであり、第二に、和歌が「やがて文学となつたものの、それでも相変らず呪文および社交の具といふ性格を捨てなかつたせいであつた」(261-262頁)と喝破する。
以上、とりわけ印象に残ったフレーズ。


さて毎夜の慰めを失って、これからどうやって就寝前の無聊を癒すか。
最初から読み返すのもいいが、それは後の日の愉しみにとっておこう。
さいわい、安東次男の『完本 風狂始末──芭蕉連句評釈』(ちくま学芸文庫)が手元にある。
まずは「狂句こがらしの巻」(『冬の日』)から、おもむろに頁を繰るか。


     ※
もう少し余韻にひたりたくて、行きつけの図書館から借りてきた『後鳥羽院』をざっと眺める。
筑摩書房の日本詩人選第10巻。丸谷才一王朝和歌論の原点ともいえる書。
「あとがき」で明かされる、中世歌論(正徹による定家の分析)とジョイス=エリオットとの丸谷才一的出会いの瞬間、野坂昭如との隠岐行といった「思い出話」が無類に面白い。
「記念」に引用を二つ。いずれも、本書の中心をなす「歌人としての後鳥羽院」に添えられた二つのエッセイの末尾の文章。
前者は「へにける年」から、後者は「宮廷文化と政治と文学」から。

わたしに言わせれば、後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって実は近代を超え、そして定家は最初の近代詩人となることによって実は中世を探していた。前者の小唄と後者の純粋詩という、われわれの詩の歴史における最も華麗で最も深刻な(そして最も微妙なとつづけてもいい)対立はこうして生れ、そのゆえにこそ二人は別れるしかなかったのである。それとも、彼らはこうならざるを得ないほど互いに相手を、そして自分を、確認したのだというべきだろうか。しかし、このへんのいきさつを詳しく考えるためには、後鳥羽院と定家を当代の文学史ではなく、もっと広く、日本文史全体のなかに位置づける試みがなされなければならない。(258頁)

…詩人の精神のいとなみがその基盤としての具体的な場を持たないという不幸は、長く日本文学の悩みとなった。詩は孤独なものに変じ、孤独を埋めるだけの力は詩人になかったのである。そう考えるとき、芭蕉の歌仙は詩の場所を持とうとしての恐ろしい新工夫としてわれわれに迫ることになるであろう。彼は草庵において宮廷をなつかしむことを一つの儀式として確立した。あるいは、西行においては個人の感懐ですんだものが、彼においては儀式の力を借りなければならなかった。そして俳諧が粋に洒落のめしながら衰弱して行ったとき、芭蕉と並ぶもう独りの天才は、宮廷と和歌との密接なかかわりあい方それ自体のパロディを作った。言うまでもなく蜀山人であり天明狂歌である。宮廷文化が存在せず、それにもかかわらずその美しさが心をとらえるとき、打つ手はただこれしかないと彼は観念していたにちがいない。ここで宮廷文化としての日本の短詩形文学は、その余映をもって江戸の空をあかあかと染めたことになる。


しかしこういう後日譚に属することは、さしあたりどうでもよかろう。いま大事なのは、後鳥羽院が宮廷と詩との関係を深く感じ取っていて、宮廷が亡ぶならば自分の考えている詩は亡ぶという危機的な予測をいだいていたに相違ない、と思われることである。それは彼にとって文化全体の死滅を意味する。彼はそのことを憂え、詩を救う手だてとしての反乱というほしいままな妄想に耽ったのではなかろうか。承久の乱はその本質において、文芸の問題を武力によって解決しようとする無謀で徒労な試みだったのではないか。わたしにはどうもそんな気がしてならないのである。「おく山のおどろが下も踏みわけて」世にしらせたいと彼が願った「道」とは歌道であり、あるいは歌道を中心とする文明のあり方であった。そして定家はもはやそのような幸福があり得ないことをよくわきまえていたのである。(291-292頁)