『正義論/自由論』

土屋恵一郎『正義論/自由論──寛容の時代へ』購入。
第Ⅰ部「リベラリズムの政治哲学」の第1章「ユートピア論的な開始」に、松岡心平著『宴の身体』(第三章「宴の身体」)と大岡信『うたげと孤心』に準拠した議論が展開されている。
連歌会や一揆やカフェに見られる、無縁化(デラシネ化)がもたらす自律した「人工の共同性」のダイナミクス。面白い。

「無縁化」といっても、けっして「無個性」ということではない。連歌の集団の歌の流れに和していながら、同時に、その流れに埋没することなく、機知に富んでいなければ、「連歌」は成立しない。(16頁)


むしろ、連歌会のおもしろさは、前の句との言語的トポスの重層性をしめしながら、その重層性を裏切って、まったく異なるトポスへと移行してしまうことのうちにある。それが、歌の機知というものである。/連歌は、かぎりなく物語の統一性を逸脱して、モザイク状の歌の連鎖になる。それが、連歌会という「無縁」のトポスにおける、歌の規則であり、歌のダイナミズムなのだ。(20頁)

ここに出てくる「機知」という言葉の使われ方は、たまたま読んでいた本で丸谷才一が言っていることと関連している。
読んでいた本というのは『光る源氏の物語』の上巻で、丸谷才一はそこで、西洋十九世紀の個人主義的文学理論と民俗学応用の集団制作的文学理論の対立がエリオットの「伝統のメディアム[媒介、巫女、霊媒]としての個人の才能」という理論によって解消されたと語っている。