2005年に読んだ本(その5)

丸谷才一『輝く日の宮』(講談社:2003.6)
 一年半遅れで読んだ。このタイム・ラグがちょうど頃合いの熟成期間となった。熟したのはもちろんこの作品に対する読み手(私)の思いの方なのだが、作品そのものも一晩寝かした饂飩かなにかのように微妙だがくっきりとした旨味を醸しだしていた。読み始めたらやめられない。どうしてこれほど面白いのかよくわからない。


村上龍『半島を出よ』上下(幻冬舎:2005.3)
 自分自身がその中に身を置くシステムの外に出ることなど誰にもできない。自らの経験そのものを成り立たせている根拠を離れると、経験のリアリティそのものが変質してしまうからだ。たとえシステムや根拠が、その内部にいる者たちが生存のために共同で制作した虚構でしかないとしても。現実を超えたところで起動するリアリティなどない。それは現実という観念に替わるもう一つの観念でしかない。上巻「フェーズ2」の第1章で、西日本新聞社会部記者の横川茂人が高麗遠征軍のハン・スンジン司令官に「どの国の法律が適用されるのか」と、政治的危険分子逮捕の法的根拠を問うシーンがある。以後充分に展開されることのないこの場面にこそ、「現実を超えるリアリティ」ならぬ「現実を制作するフィクション」の壮大な可能性が潜んでいる。


村上龍『空港にて』(文春文庫:2005.5)
 素晴らしい短編集だった。猥雑透明な精神の緊張が漂っている。(個人的な感想でいえば、開高健以来の感興を味わった。)「空港にて」は、僕にとって最高の短編小説です。by 村上龍。帯にそう書いてある。日本文学史に刻まれるべき全八編。カバー裏にそう書いてある。これらの言葉はけっして誇張ではない。(日本文学史、偉大なる田舎者の系譜。)小説は描写がすべて。「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった」と作家は(書かずもがなの)あとがきにそう書いている。「他人と共有することのできない個別の希望」を描写することは、たぶん小説にしかできないことで、同時に小説にできることの限界を超えている。


◎レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ『魂を漁る女』(藤川芳朗訳,中公文庫:2005.4)
 国枝史郎の『神州纐纈城』とか白井喬二の『富士に立つ影』の虚構世界を思わせるゾクゾクする書き出し。ドラコミラとアニッタ、この二人の対照的な女性をめぐるツェジムとソルテュクの(古代的と形容したくなる錯綜した)三角関係は、どこかゲーテの『親和力』に出てくる二組の男女の(古典的な形式美を漂わせた)交差恋愛劇を連想させる。たぶんそれは、「ゲーテの『親和力』」のベンヤミンをめぐる数冊の書物を介して、『魂を漁る女』を『神の母親』とともに「マゾッホの最も美しい小説」にかぞえあげたジル・ドゥルーズにリンクを張りたいという無意識の願望がしかけた連想だろうと思う。


村上春樹東京奇譚集』(新潮社:2005.9)
 短編集としては『神の子どもたちはみな踊る』の完成度が高いように思うが、村上春樹らしい軽く浅い陰影が忘れ難い読中感を醸しだす小品集だった。ここには五つの断面が描かれている。異界へとつながる通路・裂け目、あるいは実と虚、生と死、男と女の「あわい」、村上春樹的形象でいえば「耳」または三半規管。これらの断面における奇譚的出来事との遭遇がもたらす知覚(平衡感覚)と記憶(時間)の変容の五つのかたちが描かれている。


堀江敏幸『熊の敷石』(講談社文庫:2004.2)
堀江敏幸『雪沼とその周辺』(新潮社:2003.11)
 堀江敏幸の作品を読むという経験は、それが収められた器である一冊の書物の造本や装幀や紙質、活字のポイントや配置、行間、上下の余白、等々にはじまって、どのような生と思惟と感情の履歴をもった読み手がいつどこでどういういきさつで、またどのような場で、さらにはいかなる身体の構えでそれを読むのかに大いにかかわっている。しかしそれでいながら、そうした特殊で個別的な読書体験がもたらす堀江敏幸固有の作品世界は、たとえそれを読む人が一人としていなかったとしても最初からそこにひっそりとしかし確かな感触をもって存在していただろうと思わせる普遍的な質を湛えている。それこそ言葉という、人が生み出したものであるにもかかわらず人を超えた実在性を孕みながら自律的にそこにありつづける媒質の生[なま]のあり方というものだろう。