『モデルニテ・バロック』その他

坂部恵『モデルニテ・バロック』に「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期の歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」とあったのにいたく刺激を受けたことは先日(9月17日)書いた。
「この時期」とは14世紀から15世紀にかけての中世日本のこと。
ネットで調べてみると、この時期の主要な歌論としては二条良基[1320-1388]の「近来風体抄」、正徹[1381-1459]の「正徹物語」、心敬[1406-1475]の「ささめごと」がある。
岩波文庫の『中世歌論集』にはこの三篇のほか藤原俊成「古来風体抄」や藤原定家「近代秀歌」や「後鳥羽院御口伝」など計十一編が収められていて便利だが、残念ながら品切れ。
田中裕(丹仙)さんの「桃李歌壇」、「主催の部屋」の掲示板「連歌論・能楽論」で「心敬を読む」というプロジェクトが進行している。
「ささめごと(天理本)」の原文も掲載されている。まずはこのあたりから初めてみるか。
正徹と心敬、世阿弥と禅竹。
この二組の関係は併行していると誰かが書いていた。
心敬と禅竹は「禅」でくくれるということらしい。
松岡心平さんが『世阿弥を語れば』の松岡正剛との対談で、観阿弥世阿弥、元雅もしくは金春禅竹の三代の天才がつづかないと能楽があの高みに達することはできなかったと語っている。
だとすると、正徹、心敬に先立つのは二条良基か、それとも俊成・後鳥羽院・定家の新古今トリオか。


同じく『モデルニテ・バロック』に、「あわい」は「あう」を名詞化してできた言葉で英訳すると“Betweenness-Encounter ”になるとあり、これは木村敏『偶然性の精神病理』につながるのではないかと一昨日書いた。
「タイミングと自己」を読み終えてますますその確信が深まった。
木村敏は「日本人は、時間という現象を「タイム」という客観化可能な(リアルな)「もの」として理解する以外に、タイムがアクチュアルに「タイムする」、その一瞬の微妙な動きを「タイミング」として捉える特別な感覚に古来長けていたのではないか」(111頁)と書いている。
またタイミングを「意識と無意識、個人の人称性と個人を超えた匿名性、時間と自己、時間と生命などがたがいに触れ合う界面的な次元」(121頁)に位置づけ、「自他の界面現象としてのタイミング」と表現している。
この「タイミング」は潮時とか間合いといった複数の日本語におきかえることができそうだが、歌論、連歌論などを読むとそのものズバリの言葉が見つかるかもしれない。
「症例」に出てくる患者の言葉に「フライング」がある。
「人と話していても間がもてなくて、全体の雰囲気よりも早めに出てしまう。いつもフライングしている感じ」。
日常語に「舞い上がる」とか「(場の雰囲気から)浮いている」があるが、これもまた連歌論、能楽論あたりに適切な語彙が見いだせるかもしれない。


     ※
富士ゼロックスの『グラフィケーション』(No.140)が届いた。
特集は「地域の自立と再生」。巻末の「編集者の手帖」にこう書いてある。
「地域が元気にならなければ、いくら大都市に住む人間が「改革だ」「グローバル化だ」と叫んでも、世の中が変わったとは言えないし、農林漁業とものづくりの関係もよくならないというのが私たちの考えで、本誌は意図的に「地域」の問題に焦点をあててきた。」
この編集方針に一票。
以下は、三俣学氏(兵庫県立大学経済学部専任講師、エコロジー経済学専攻、コモンズ論からのアプローチで日本の森林研究に取り組んでいる、とプロフィールに書いてある)の「二十一世紀に求められる“共的世界”の再生と創出」から拾ったキーワード。
「コモンズは境界に生まれる、しかもそれは“重なり合う境界”に」。これは間宮陽介氏の言葉。
『コモンズの思想を求めて』の著者・井上真氏はコモンズを「思想を秘めたもの」と捉えている。
コモンズに底流する思想とは何か。
三俣氏いわく「自然環境を豊かに備えた社会を未来に向かって希求する思想ではないだろうか。そのような社会に向かう道筋を展望するにあたっても、コモンズの思想は私たちを誘い続ける。人間間・組織間の調整(寄り合い・話し合い)をできる限り繰り返すべし、という入会に見たあの精神がその一つではなかろうか」。


ここを読んで石川忠司『現代小説のレッスン』二章の保坂和志論を連想した。
石川忠司はそこで宮本常一の『忘れられた日本人』に描かれた「村の寄り合い」の情景──「結論へ到達することが目的ではなく、「こんな風にいろいろ脱線や食い違いを繰り返しながら二、三日集まっていること自体が十分『結論』なんじゃないか」と語っているみたいに感じられるこの極楽トンボな雰囲気」(78頁)──を保坂和志の世界になぞらえていた。

保坂和志の「思考のかたちをとった『日常生活』」とは畢竟、共同体の謂いである。共同体こそ複数の論理の紛糾や空回りによって単線的な論理がなしくずしにされ、明確な結論よりもともに適当に、すなわち真の意味で真面目に生きることを求められる場にほかならないからだが、ところでこのタイプの思考を「純粋」に突き詰めるためには具体的な形象、すなわちさまざまな人物たちが実際の世界においてお喋りしたり触れ合ったりしている形象が是が非でも必要とされよう。端的に言えば、「小説化」される必要があるわけだ。(『現代小説のレッスン』78-79頁)

石川忠司保坂和志の創作の核に「ヘヴィな」(72頁)思弁的考察があるといい、その思弁的考察とは「具体的もしくは抽象的に「日常生活」について考えられた思考ではなく、あくまでも正確に思考のかたちをとった「生活」そのものである」(76頁)という。
それをコモンズに秘められた思想そのものと見てもさしつかえない。
石川忠司がいう「形象」を近代的な意味での「小説」にかぎる必要もない。
歌論(連歌論、能楽論)と農書(コモンズ論)の接点がみつかった。