『モデルニテ・バロック』その他

『モデルニテ・バロック』を五十頁ほど読んだ。


エスノサイエンス(土着の伝統科学)という言葉(147頁)。
◎「あわい」は「語り・語らい」や「はかり・はからい」の造語法と同じく「あう」という動詞そのものを名詞化してできた言葉で、西田幾多郎の「場所」(動的な述語)につながり、英訳すると“Betweenness-Encounter ”になること(170頁)。それは「生死の連続体」(174頁)あるいは「生死の可逆性」(176頁)、「相互浸透の関係」を含意すること。日本の古い使い方では「あわい」は男女のペアをさしていたこと(178頁)。また「潮時」という別の日本語で表現できること(178頁)。
◎「振舞い」という日本語は「振り」「振りをする」(Mimesis)と「舞い」(Tanz)に分解できること(173頁)。舞いは振舞いの極限形態であり、ベルクソンが『時間と自由』の最初の方でその見事な哲学的分析をしていること(この本は一度読んだけれど覚えていない)。ポール・クローデルが「西洋の劇では何かが起こり、能では何かがやってくる」という言葉を残していること(177頁)。


ざっと拾い出しただけでもこれだけのネタがある。
エスノサイエンス」や「あわい」や「振舞い」や「能」は「場と縁」の研究会にリンクできる。
「あわい=潮時」は今読んでいる木村敏『偶然性の精神病理』の「タイミングと自己」につながる。
全体に漂う西田幾多郎の影は『物質と記憶』にも関連していく。
そして「男女のペア」は吉本隆明の「対幻想」(ラカン想像界)を経て三浦雅士『出生の秘密』の最終章(595-598頁)にリンクを張ることができる。


『出生の秘密』に関連して思いついたことがあるので書いておく。
『青春の終焉』『出生の秘密』に続く第三部のテーマについて。
二つの方向がある。
その一は、最終章に出てくる「対幻想」を手掛かりに、生死・男女の「あわい」を描く妊娠小説とか情死小説を素材にして物質への夢を探求するもの(たとえば村上春樹東京奇譚集』所収の「日々移動する腎臓のかたちをした石」に出てくる腎臓石=胎児の夢)。
その二は、言語の二重性を手掛かりにするもの。
ここでいう二重性は「物質と意味」のそれではなく、坂部恵『モデルニテ・バロック』の底流をなすロゴスの二つの流れのこと。
すなわち「理性(ラチオ)」としてのロゴスと「生きた(神の)息吹にほかならぬことば(ヴェルブム)」としてのロゴス(144頁)。
とりわけ「ヴェルブム」(Verbum)──「世界を生み出すないし流出させる力としてのロゴス(ヘブライ語のダーバール)」(94頁)のラテン語訳であるヴェルブム、(唯識密教にも近い)新プラトン主義の伝統に根ざし(97頁)、バロックの源流としてのヘレニズム期の中近東、とりわけビザンチンの伝統を汲んだヴェルブム(143頁)──に着目した言語哲学の書。


     ※
岡野玲子陰陽師12 天空』読了。このマンガはとんでもない世界へ入ってしまった。
中国数学(句股弦の法=ピタゴラスの定理)と平安京造営。
古代エジプトの物語(晴明と真葛の前世の記憶?)。
この二つの世界(理と情)に浸食され、ほとんど溶解しかかったコマ割り。
マンガでしか表現できない俗の世界が透視される。
全編に霞のように音楽(雅楽)がたちこめている。
晴明対道満の最終決戦(第13巻)へ、物語は緊迫の度を高めていく。


二ノ宮知子のだめカンタービレ』#13読了。
パリ篇のテーマがようやく見えてきた感じ。
「のだめ」の場合はつい最近#1から#12まで通して読んだばかりでまだ余韻が残っていたからすぐにその世界へ入っていけたけれど、やはりマンガは一気読みでないと心底愉しめない。