『東京奇譚集』その他

植島啓司『性愛奥義──官能の『カーマ・スートラ』読解』を買った。
「われわれはなんと貧困な性愛しか知らなかったか!」「誘惑の作法から爪と歯の使い方まで いまこそ学ぶ、古代の智慧」「卓抜な比喩と精緻な分類から豊饒なカーマの世界が浮かび上がる!」
店頭でみかけた時からいつか買って読むことになるだろうと思っていた。
退屈な分類と講釈が延々と続くだけなのではないかとこれまで慎重に構えていたけれど、何か官能小説の新作でも買おうと本屋をうろうろしているうち、晴山陽一『実例!英単語速習術──例文で覚える一○○○単語』といっしょにはずみで買った。
『1日5分で英語脳をつくる音読ドリル』がほとんど最後までいったので、次のテキストを探していた。
「最強の英語攻略本!」「この一冊で、《単語、英作文、解釈》を一網打尽。ネイティブのセンス溢れるオリジナル例文を満載。」
この謳い文句に手もなくまいった。


     ※
村上春樹東京奇譚集』読了。
昨晩、就眠前に一篇だけのつもりで読み始めたら止まらなくなり、二時間ほどかけて最後まで読み耽った。ちょうど五篇のオムニバス映画を観た感じ。
でも読んでいる間、映像が浮かび上がることはなかった。
NHK教育を小音量でつけていて誰かがピアノ・ソナタを演奏したり義太夫を唸っていたが、ほとんど耳に残っていない。
活字が音となって響くこともなかった。
純粋に文章を「読む」ことに集中し、そこから立ち上がる物語世界に没頭した。至福の二時間。
私の頭の中に村上春樹のための場所が確立されているのだろう。
短編集としては『神の子どもたちはみな踊る』の完成度が高いように思うが、村上春樹らしい軽く浅い陰影が忘れ難い読中感を醸しだす小品集だった。


ここには五つの断面が描かれている。
異界へとつながる通路・裂け目、あるいは実と虚、生と死、男と女の「あわい」──「あう」の名詞化、坂部恵はこれを“Betweenness-Encounter ”と英訳する(「生と死のあわい」,『モデルニテ・バロック』170頁)、村上春樹的形象でいえば「耳」または三半規管。
これらの断面における奇譚的出来事との遭遇がもたらす知覚(平衡感覚)と記憶(時間)の変容の五つのかたちが描かれている。
誰よりも鋭い耳(34頁)をもった調律師は、十年ぶりの姉との再会に際して「物体と物体とのあいだの距離感」(36頁)を喪失する(「偶然の旅人」)。
絶対音感をもつピアニストは、息子が鮫に襲われて死んだ海を眺めながら過去と将来の「時制」を見失う(51頁,「ハナレイ・ベイ」)。
異界へのドアを探している「私」は、階段の踊り場の大きな鏡に向かい合ったソファに腰を下ろしていて「25分」(102頁)の記憶の消滅を体験する(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」)。
人の名前を盗む猿に心の闇を言い当てられた女(みずき)は、身体がほどけ皮膚や内臓や骨がばらけてしまいそうになる(206頁,「品川猿」)。
そして、何よりもバランスを大切にする女(キリエ)と本当に意味を持つ女性を探しつづける小説家の男(淳平)が登場する「日々移動する腎臓のかたちをした石」では、同名の作中作の中で腎臓石(胎児の象徴?)に支配された女医が現実へのいっさいの関心を失う(146頁)。
とりわけ興味深いのはこの(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」と「品川猿」の間に配列された四番目の)短編で、そこでは断面が告知するもの──すなわち「肉体における腫瘍みたいに」(180頁)増殖する心の闇=「空白」(154頁)──からの救出ではなく、それとの親密な「バランス」を通じて「自分という人間が変化を遂げる」(152頁)ことへ向けた作家のメッセージが、小説家の苦難(小説制作上の)を救ったキリエの口を通じて伝達される。

たとえば風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内面にあるすべてを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく。(145頁)