『物質と記憶』(第6回)

「内田樹の研究室」(2004年07月18日)が『物質と記憶』を取り上げている。
「若い頃に読んだときはぜんぜん面白くなかったベルクソンであるけれど、五十路を過ぎて読むとなかなか面白い」。同感。


先週に続き五節「表象と行動の関係」を熟読。
今日は第一章を最後まで一気に通読しようと意気込んでいたのに、復習をかねて五節にざっと目を通し始めるやたちまち気になること・よく分からないこと・じっくり考えてみたいことが次々とみつかった。
まず「振動のそれ自身への見せかけの反射、光源のイマージュへの光線の還帰、というよりは、知覚をイマージュから浮き出させるあの分離作用、すなわち弁別する働き」(52頁)とあるのは四節「イマージュの選択」に出てくる屈折と反射の比喩(42-43頁)を踏まえてのことだが、該当個所を読み返すうちベルクソンの比喩の意味するところがよく分からなくなった。
「知覚は、屈折が妨げられて起こるあの反射の現象とよく似ている。それはちょうど蜃気楼の効果のようなものである」(43頁)。
蜃気楼は屈折に伴う現象のはず。
蜃気楼は「知覚をイマージュから浮き出させる」ことの比喩ではあるが、知覚(反射)そのものの比喩にはならない。
いったいどういう図式を想定すればいいのか。
「反射」は後に「投影・投射」との比較で重要な語彙になっていく(53-55頁)だけに、ここでしっかりとイメージしておきたい。
「しかしこれは比喩にすぎない」(65頁)とは異なる場面で言われていることだが、よくできた比喩にはくれぐれも注意しないといけない。


比喩といえば「アメーバ」や「突起」も気になる。これまでに出てきた箇所を列記しておく。
感覚系と運動系の間に介在する「アミーバ状突起」(34頁)。
「原生動物がさまざまに生じる突起や、棘皮動物の棘は、運動器であるとともに触角の器官である」(36頁)。
視覚を失うと触覚的印象と運動とを関連させる新しい秩序が脳の中に生まれ、「皮質内の運動性神経要素の原形質的突起は、こんどははるかに少数の、いわゆる感覚性神経要素と関連させられるであろう」(52頁)。
巻末の事項索引の第一に「アミーバ」が出てきて、先の「アミーバ状突起」(34頁)とともに「アミーバの意識」(180頁)や「アミーバの収縮」(63頁)が掲げられている。


よく分からないことに話を戻す。
感覚のモード(視覚、聴覚、触覚)と運動との関係について。
「外的には同一の運動も、そのあたえる応答が、視覚的、触覚的、あるいは聴覚的印象のいずれにたいするものであるかによって、その性格が内的に変様されるのである」(52頁)。
以下の叙述をいくら読んでも「内的変様」の実質がよくつかめない。
四節まで戻ると、「行動が時間を処理するのと正確に比例して、知覚は空間を処理する」(37頁)とか、知覚と写真の関係(43-44頁)とか、「万物の可能的知覚」(44頁)とか、生気を呈するすべての性質を物質からはぎとる(45頁)とか、「意識的知覚と脳の変化…の相互関係は、どちらも意志の不確定という第三項の関数であることからくる」(47頁)とか、再々出てくる「尺度」という言葉の意味とか、よく分からないこと・じっくり考えてみたいことはいくらでも出てくる。
遡ればもっとたくさん出てくるはず。


五節を読んで気になったことを二つ書いておく。
最初は非人格的であった表象が「帰納の力」によって自分の身体を中心とする自分の表象へと漸次推移していく「操作の機構」をめぐって、ベルクソン
「私の身体が空間中を動くのにつれて、他のすべての表象は変化するが、これに反して身体は、どこまでも変化することがない。だから私は当然これを中心とせざるをえず、他のすべてのイマージュをそれに関連づけることになるだろう」(53頁)
と書いている。これは「数覚」のことではないか。
一次変換と固有値固有ベクトル云々の線形代数が知覚の現場で稼働している?
ベルクソンは「提起された諸問題こそ、まさしく知覚とよばれるものなのである」(51頁)と言う。
また「意識とは可能的行動を意味する」(58頁)と書いている。
さらに「私の神経系は、私の身体を興奮させる諸対象と、私が影響を与えることのできそうな諸対象との間に介在して、運動を伝達、分配し、あるいは制止するたんなる伝導体の訳を演じているだけだ」(51頁)
あるいは「脳とは私たちの考えでは、一種の中央電話局にほかならぬ」(34頁)とも。
これらを組み合わせると、そこに「問題─伝導(操作)─行動(解)」という数学の図式を描くことができる。
生きるとは解けない問い=微分方程式を解くこと、とまで書くとこれはもうドゥルーズ
ついでに書いておくと、後に「私たちの身体は空間中の数学的点ではない」(67頁,65頁参照)という言葉が出てくる。
(伝導体の役割「運動の伝達・分配・制止」に関して、ベンジャミン・リベットの実験を参照のこと。)


気になったことの二つ目。
ベルクソンは先の「帰納の力」云々に続けて、私の身体と他の物体の区別から当初は「内部と外部」の概念が生まれるのだが、
「イマージュ一般が私に与えられれば、私の身体は結局必然的にそれらの中ではっきりした事物として現出することになる。それらはたえず変化するのに、私の身体はそのまま変わらないからである。内と外の区別は、このようにして、全体と部分のそれに帰着するだろう」(54頁)
と書いている。
ここを読みながら私は「アナログの私」(『神々の沈黙』)を想起し、内部と外部はラカン想像界に、全体と部分は象徴界に対応しているのではないか(『出生の秘密』)と考えた。
それはともかく、ベルクソンは「先走り」をしてはいまいか。
つまり「イマージュ一般が私に与えられれば」というのは「言語が私に与えられれば」と相同なのではないか。
記憶を捨象した純粋知覚を論じるこの場面で、それは先走りではないか。
あるいは、知覚し行動する当の「生活体」とそれを観察し記述する者との立場が混同されてはいまいか。
たぶん私のこの疑問は間違っている。
間違ってはいるだろうが、こういう疑問を抱いた事実は忘れないようにしよう。