『モデルニテ・バロック』その他

この5月、同時期に買って共に読みかけのままになっていた二冊の論文集、坂部恵『モデルニテ・バロック』と木村敏『関係としての自己』を少しずつ読んだ。
『関係としての自己』は「序論」を読んだ。これでたぶん五度目。
読み返すたびに新たな発見がある。
冒頭にドゥルーズが引用されている。


「意識はけっして自己[ソワ]の意識ではなく、意識的でない自己に対する自我[モワ]の意識である。それは主人の意識ではなく、主人に対する奴隷の意識であって、主人は意識的である必要がない」(5頁,邦訳『ニーチェと哲学』65頁)。


ここに出てくる主人と奴隷の関係は、フロイトの「自我とエス」では騎手と馬の関係に喩えられている。


「自我は、知覚・意識系の仲介のもとで外界の直接の影響によって変化するエスの部分》である一方で、《理性とか分別とかと呼ばれるものを代表して、さまざまな情念を含むエスと対立している》。自我のエスに対する関係は《手に負えない力をもつ馬を制御する騎手に似ている》が、落馬を防ぐために《ふつうはエスの意志を、あたかも自分の意志であるかのように実行に移している」(15頁,邦訳『フロイト著作集6』274頁)。


主人と奴隷の関係といえば『精神現象学』。
三浦雅士は『出生の秘密』で真理と非真理、現実と虚構(文化)、理想と現実を主人と奴隷に準えていた(548頁.556頁)。
主人と奴隷の弁証法(僻みの弁証法)はルソーの『人間不平等起源論』の直接的な延長上に考察されたと見るべきだろうと書いていた(552頁)。
だからどうというわけではない。
ヘーゲルフロイトを掛け合わせるとラカン現実界想像界象徴界になる。
現実界想像界の界面に「ソワ」が、想像界象徴界の界面に「モワ」が立ち上がる。
そんなことが言えるのだろうか。


     ※
『モデルニテ・バロック』は最後に収められた「日本哲学の可能性」を読んだ。
名著『ヨーロッパ精神史入門』のコンパクトな要約と日欧の精神史的転換期の要を得た比較は鮮やか。
霊性の基盤」(9世紀)、「個(体)の思考」(14-15世紀)、「モデルニテの時代」(欧1770-1820,日1850-1900)、「1960年代以降」の四区分は年代記としてではなく一つの観念の生長のプロセスとしても活用できる。
その背景に潜む経済史的転換への目配りが素晴らしい。
経済史─精神史的考察。哲学の「制作」と「精神史的リソース」の活用。
この二つの語彙が強く印象に残った。以下、若干の抜き書き。


◎「科学と芸術のうちに(潜在的に)生きる哲学的思索にセンシティヴになることは、今後の哲学とリベラル・アーツ精神の発展のために何よりも肝要なことといってよいだろう」(237頁)。

◎「霊的修業のマニュアル」(244頁)という一面を多分にもつエリウゲナや空海の「後の制度化されたキリスト教や仏教の枠におさまり切らぬ大胆さをもち、個人とその連帯の、垂直の超越的かかわりをはらんだ原点を指し示す」思索は、「たとえば、西田とエリウゲナの発想の近縁関係が指摘されたりもするように、(一九世紀的な国民国家の枠組みなどとははじめから無縁な国際性をもち)、今日なおあらたな思索を挑発して止まぬ精神史的リソースとして生きつづけているといえるだろう」(245頁)。

◎「個(体)の思考」と括られた転換期は「伝統的共同体の絆の弛緩にともなう個の析出と孤立へのレスポンス」(246頁)という性格をもつ。この時期の日本における「他の個と垂直の超越の絆を介して連帯する個という思想の掘り下げ」は同時期のヨーロッパに十分ひけをとらないほど活発だった。しかし「この連帯の面での徹底が、かえってアトム的な個をまず擬制的に析出して(後の社会契約論にいたるまで)しかるのちに連帯と謝絶(抵抗権等)のありようを考察するノミナリズム的な社会哲学の内発的展開をむしろ阻害するようにはたらいた可能性」がある。この「共同体的連帯の重視」という側面が速くも『神皇正統記』で原理主義イデオロギー化の方向を見せ、明治から昭和の最初の二十年までの共同体の思考に暗い影をおとすことになった。「しかし、一方で、西田から西谷にいたる現代日本の哲学者の多くが、共同体の問題を垂直の絆を含めて、ということは宗教(哲学)の考察を必須の到達点として思索していることは、日本の精神史的リソースのもつポジティヴな要素として評価することがすくなくとも可能だろう」(247頁)。

◎「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期[「個(体)の思考」の時期]の歌論(詩論において空海はその先駆者でもあった)、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」(247-248頁)。


昨晩の研究会のテーマは「日本的な知の遺産を現代につなぐ」といった趣旨のもので、これに場(空間)と縁(ネットワーク)の二つの側面からアプローチする。
私が参加しているのは後者のチーム。
そろそろ自分なりに探求する対象を明確にしないと思っていた矢先、「日本哲学の可能性」は大きなヒントを与えてくれた。
歌論と農書。この二つの「精神史=自然(経済)史的リソース」(まずは前者)に取り組む。
歌は死に、農は生に通じる。生と死を媒介するもの、もしくはその基体としての身、すなわち貨幣。
こうして精神史=芸能史=農業史=経済史的考察がなりたつ。
まずは松岡心平『中世芸能を読む』と守田志郎『日本の村』を読み直し、ついでジンメル『貨幣の哲学』と三浦梅園『価原』を仕上げ、クロソウスキーブランショに取り組む。
歌論に直にあたる助走として丸谷才一『新々百人一首』を読み込む。
精神史=自然(経済)史的リソースへのフィールドワーク。『物質と記憶』も関係してくる(かもしれない)。


     ※
村上春樹東京奇譚集』を買った。
「ねじまき鳥」以来の長篇・中編・短編のサイクルがこれで二巡した。
ねじまき鳥クロニクル 第3部』(1995)、『スプートニクの恋人』(1999)、『神の子どもたちはみな踊る』(2000)の第一期。『海辺のカフカ』(2002)、『アフターダーク』(2004)、そして『東京奇譚集』(2005)の第二期。
私がたてたムラカミハルキの法則によると二巡でパターンが変わるはずだが、これは当てにならない。


天外伺朗瀬名秀明『心と脳の正体に迫る』を買った。副題は「成長・進化する意識、遍在する知性」。
ここに漂う「いかがわしさ」がとても香ばしい。
意識の成長・進化にはあまり惹かれないが、遍在知性(ユビキタス・インテリジェンスとでも?)は面白い。
これにアフォーダンスがからんでくるともっと面白い。
フィリップ・K・ディックの『我が生涯の弁明』が読みかけのままになっているので、あわせて読めればいいと思う。
あまり関係ないかもしれない。


夜『ビューティフル・マインド』を観た。これは老年の素晴らしさを讃えた映画だ。
ジョン・ナッシュノーベル賞授賞式でのスピーチは感涙もの。
リーマンの名前が二度出てきた。嬉しい。
DVDのボーナスにカットされた映像が監督の解説つきで収めてあった。実に面白い。ここにある「テキストによる映画の再現」レビューはとても便利。