『出生の秘密』その他

昨夜、講演後のミニパーティと少人数の二次会で、複数のジャーナリストから新聞やテレビでは報道できない話をたくさんお聞きしたのだが、にわかには思い出せない。
こういう情報は知らず知らずのうちに身に染みこんでいくもので、いつか意味とかたちを変えて意識にのぼってくることもあるだろう。耳学問の効用。
数人の気心の知れた人たちと三次会になだれこみホテルに帰って寝たのが夜中の2時。
朝5時に起きて9時過ぎには神戸に帰ってきた。眠い。
夜には二年前から参加している某研究会の会合がある。
「人社講」と銘打って今月から毎月6日に集まることになった。
9月6日は台風が切迫していたので今晩になった。眠い。
会合の後カクテルを一杯ひっかけて後帰宅したのが11時、眠気がいつのまにか飛んでいた。
深夜、ビデオに撮っておいたNHK教育の「視点・論点」を観た。
茂木健一郎さんの「小林秀雄に学ぶ 話し言葉の魅力」。
『脳と仮想』が小林秀雄賞を受賞した。テレビでもそのことにふれていた。


     ※
三浦雅士『出生の秘密』読了。
昨日、今日、往復の新幹線の中で二百頁ほど読んだ。
ほとんどうたた寝の夢の中でページを繰っていたような感じで、新神戸にたどりつくまでに最後まで読み切れず四十頁ほど残していた。
隙間の時間を使ってなんとかその日のうちに読み終えた。
あとがきの高揚はやはり浮いている。
一つの概念というか問題系(言語空間)の誕生の現場に立ち会えた興奮が心から湧いてこない。
面白い本ではあったが、はたしてこれほど長く書くだけの実質があったのだろうか。
成長(進歩)・教養・青春(自意識)の誕生とその終焉の実相を鮮やかに叙述しきった『青春の終焉』と比較して、冗長と迂回と停滞の感は拭えない。
膨大な素材が自閉して放り出されている。
一度熱を冷ましこれらを再編集して最初から語り直せば、もっと濃く鮮やかな物語になるのではないか。
(三角関係という自意識のドラマから主人・奴隷の二者関係へ。
この『青春の終焉』から『出生の秘密』への道行きに続くものは何か。
それが「一なるもの」へと向かうのは見やすい道理だ。)


「出生」の秘密には二つの次元がある。
その一は未生以前の物質(死)から生命(生)へ、その二は動物としてのヒト(本能)から言語を獲得した人間(知性)へ。
そのそれぞれの境界(界面)のうちに「秘密」は潜んでいる。
ラカンの概念を使って、前者は現実界から想像界へ、後者は想像界から象徴界へと言い換えることができる。
本書を支えている理論的骨格がこの現実界想像界象徴界の概念で、パースのイコン・インデックス・シンボルがこれと不即不離の関係でからんでいく。
そのもっと奥にあるのがヘーゲルの『精神現象学』。
フロイトヘーゲルによって読みかえる作業を通じてラカン現実界想像界象徴界を切り出し、ヘーゲルの概念化作用(生命の本質)を記号化過程におきかえてパースは記号の三区分を導出した。
以上が『出生の秘密』のいわば舞台と書き割り。
その上で、丸谷才一の短編「樹影譚」をふりだしに中島敦象徴界から想像界現実界への下降)、芥川龍之介象徴界への停留)、夏目漱石象徴界想像界の界面)の三人の文学者とその作品群をとりあげ、最後にふたたび丸谷才一の『エホバの顔を避けて』で締めくくる。
なかでも全体のほぼ三分の一の分量を費やした漱石が圧巻。
ヘーゲル漱石のあやしい関係(漱石は大学時代に『精神現象学』に感銘を受けて「老子の哲学」を書いた)を執拗低音とする長い叙述をくぐりぬけ、アウフヘーベンとは「僻み」である、つまりヘーゲル弁証法は「僻みの弁証法」であるという帰結が示される。
僻みは「否定」と「抑圧」(保存)の二重の意味をもつ(「僻み」を九鬼周造の「いき」と比較すると面白い)。
「意識そのもの、自己意識そのものに僻みの作用がある。いやそれは僻みの作用そのものである」(538頁)。
僻みの構造は食における晩餐、性における婚姻と論理的に相同である(541-543頁)。
ここに想像界(食と性の世界)から象徴界(言語)への移行の「秘密」が隠されている。
獲物をその場で食べずに仲間のもとに持ち帰り共食したときに「魂」は生まれた。
否定(すぐには食べない)と抑圧(食べるときまで待つ)が食物を「意味」に変えるからだ。

否定と抑圧が祖霊という観念を引き寄せ、食物が供物になったとき価値が生まれた。使用価値から交換価値が剥離した。意味すなわち言語が発生したのだ。(略)食べられるけれど食べられないというこの二重性は、魂と身体という二重性、自己であると同時に他者であるという二重性と、同じことなのだ。二つの身体を持つのは王だけではない。名を持つ人間のすべてが二重性を帯びているのである。人間こそが交換されうるものなのだ。貨幣とは何よりもまず人間のことなのであり、人間の発生と奴隷の発生とは軌を一にしているのである。自己とは自己の奴隷化にほかならない。(あとがき,615-616頁)


著者は「あとがき」で「出生の秘密を解明しようとするささやかな試みが、言語空間の探求へと進むほかなかった理由」を書いている。
食べられるけれど食べられないという二重性はそのまま言語・貨幣・社会・国家・宗教の二重性につながる。
この二重性が次元の混乱を惹き起こし、ひいては人間を豊かにも惨めにもしてきた。
それは生命すなわち概念化作用による世界の階層化・次元化が錯覚と錯誤をもたらし、ひいては生命現象の豊かさを形成してきたことに対応している。
であるならば言語における物質と意味の二重性が精神の次元に錯覚と錯誤をもたらすのは当然というべきだろう。
何が言いたいのか。
想像界(生物)から象徴界(精神)への移行が根源的であること。
すなわち世界は「言語空間」であること。
父母未生已然の世界すなわち現実界(物質)、それもまた「言語空間」であること。
「人は言語空間すなわち死のなかで生き、生はただ言語によってのみ輝く。/言語空間の探求はいまはじまったばかりなのだ」。
これがこの「一冊の興味深い書物」(516頁)の末尾の言葉である。