『レヴィ=ストロース講義』

レヴィ=ストロース講義』読了。
レヴィ=ストロースの講演を京都で聴いたことがある。たしか日文研が主催した催しで、梅原猛の「日本人のあの世観」についての講演の後だったと記憶している。
内容はほとんど記憶になく、日本神話、それもスサノオの名が出てきたのを覚えている程度だが、20世紀を代表する知性の肉声と肉顔に接したことは貴重な経験だった。
本書に収められた三つの講演は1896年、いずれも東京で行われたもの。
京都公演と時期的にはほぼ重なり合うが、記憶が不確かなのであてにならない。
以下、本書からの若干の抜き書き。


◎「西欧では、人類学的探求は、ひどく異質な文化に触れることを可能にした大航海の影響のもとで始まりました。/一方、当時鎖国していた日本においては、それは「国学」によって始められたと考えられ、一世紀後の柳田国男の記念碑的な企てもその伝統につらなっている、少なくとも西欧から観察するかぎりではそのように見うけられます。」(35-36頁)

◎「文化とは、ある文明に属する人びとが世界ととり結ぶさまざまな関係の全体のことであり、社会とは、それらの人びとがお互いのあいだにとり結ぶさまざまな関係のことをさしています。」(112頁)

◎「人間の進化は、生物学的進化の副産物ではないのです。(略)おそらく人類の発生の初期には、直立歩行、器用な手の動き、象徴を用いる思考の能力、発声および伝達能力など、文化以前の属性が生物学的進化によって選択されたのでしょう。ところが文化が形づくられはじめたとき、これらの属性を確立し広めていったのは文化なのです。」(156-157頁)


そのほか、文字のない社会の研究成果がいかに現代社会の問題解決に寄与するかを論じた第二講演でとりあげられた三つのテーマ──すなわち「性」(家族・社会組織)と「開発」(経済生活)と「神話的思考」(宗教思想)──はとても射程の広い区分だと思った。
また、レヴィ=ストロースが人類学の方法は世阿弥の「離見の見」と通じ合うと述べたことについて、川田順造が巻末に寄せた文章の中で、それはアメリ文化人類学でいう“detachment”に対応させられるだろう、しかし世阿弥の説は「離見の見にて見る所はすなわち見所同心[けんじょどうしん]の見なり」(『花鏡』)という言葉に凝縮されているように、「為手[して]が我見[がけん]を離れることによって、見所すなわち観客と心を共有できる場を創出することにある」のであって、「隔たりを置くこと」(デタッチメント)とは細かいようだが重要な違いがあるのではないかと書いていたこと(236-238頁)も印象に残った。


     ※
芸術新潮』9月号にレヴィ=ストロースの写真集『ブラジルへの郷愁』が紹介されていた。
レヴィ=ストロースその人を撮影した写真集ではなく、二十代半ばのレヴィ=ストロースが撮影したブラジル先住民の写真集。
それまでの民俗学写真とくらべこの写真集のどこが画期的だったのかと問われて、港千尋いわく「撮影者の視線の低さです。背の高いあのレヴィ=ストロースがしゃがみこんで、先住民の子どもたちを、上から見下ろすのではなく子どもと同じ低い視線で撮っている。視線は対等になり、撮影者は子どもたちを見ると同時に、子どもたちから見られてもいる。このような視線の対称性はそれまではほとんどなかった」。


養老孟司さんが「鎌倉傘張り日記」(『中央公論』10月号)に面白いことを書いている。
「言葉と文化」が今回のエッセイの題名。
中国語は奇妙な言葉で、西欧語にも日本語にも冠詞があるのに中国語にはそれがないというのだ。
日本語に冠詞があるとは初めてきいた。養老孟司の説明によると、「昔々おじいさんとおばあさん」と来ればそのあとは「が」である。
次に「おじいさん」と来れば「は」である。
先の「おじいさん」は概念としてのおじいさん(ア・おじいさん)で、山に芝刈りにいくのは具体的かつ感覚的なおじいさん(ザ・おじいさん)である。
英語の不定冠詞、定冠詞と同じ働きを日本語の助詞「が」と「は」がはたしているのである。
中国人が日本人というとき「ア・日本人」(概念的なもの)と「ザ・日本人」(感覚的なもの)の区別がない。だから個々のケースが全体とみなされやすい。
中国が政治的であり原理的であるのは中国語の性質によるのだ。以下略。

昔読んだ本の中で、何が正義かをめぐる個々の正義観は千差万別でもそこには共通の正義の概念がある、といったことが書いてあった。
(昔読んだ本というのが井上達夫氏の『共生の作法──会話としての正義』であることは間違いない。
でも人にやってしまって今手元にないので議論の詳細が確認できない。)
言葉の使い方は逆転しているが、ここで言われる「正義観」が不定冠詞のつく概念的なもので「正義の概念」が定冠詞のつく感覚的なものと考えてみると面白い。
この場合の「感覚」はたとえば「生命感覚」とか「宇宙感覚」などと言われるときの根源的かつ普遍的な感覚を表現している。
あるいは数感、哲覚のたぐい。
個別であれ普遍であれ何かがたしかに実在しているという感覚。
これに関連して(いるかどうかはともかく)レヴィ=ストロース講義の一節を想起したので抜き書きしておく。

哲学的あるいは科学的思考が概念を作り、概念の連鎖によって論理を進めるのに対し、神話的思考は、感覚的世界からとりだされたイメージによって展開されます。/神話的思考は、観念のあいだに関係を設定するかわりに、天と地、地と水、光と闇、男と女、生のものと火にかけたもの、新鮮なものと腐ったものなどを対置します。こうして、色彩、手ざわり、味わい、臭い、音と響きといった感覚でとらえられる質を用いた論理体系が創り上げられるのです。神話的思考はこれらの質を選び、組み合わせ、対置することによって、なんらかの形で暗号化されたメッセージを伝えるのです。(119頁)