現在進行形のソシュール言語学



☆ポール・ブーイサック『ソシュール超入門』(鷲尾翠訳,講談社選書メチエ


 この作品は一篇の小説なのではないか。読み進めながらそんな感想をもった。たとえばソシュールの言語思想を主人公とする新趣向のビルドゥングスロマン。あるいは新しい聖体(ラング)の探求を描いた血湧き肉躍る冒険譚。


 読者は第一章で最終講義の聴講生となり、「メンドリが孵したアヒル」(139頁、233頁)のような言語の非合理性に向き合うソシュール教授の「不安や悲しみ、当惑」(67頁)を直に体験する。
 続く三つの章では、パリ時代の「すさまじく優秀でカリスマ性を備えた若き学者」(82頁)の相貌や、ジュネーヴ帰郷後の「異言[グロッソラリア]、伝説、アナグラムといった、周辺的だがひじょうに言語学的な現象」(115頁)に魅了される「紳士的言語学者」の端正な外見と内面の格闘をかいま見る。
 第五章から第七章までの理論篇で、できあがったソシュール言語学の解説に学ぶのではなく、ソシュールが悪戦苦闘しながら(言語を歴史の対象ではなく科学の対象としてとらえる)一般言語学の理論を、すなわちラング(システムとしての言語)とパロール(使用されている言語)、聴覚イメージと観念(概念)、シニフィアンシニフィエ、恣意性、価値と意味作用、共時態と通時態といった概念を構築していく過程を生々しい産みの苦しみとともに追体験する。
 そして第八章で「ソシュール作と称して吟じられたラプソディーのような」(211頁)テクスト『一般言語学講義』の没後出版にまつわる顛末を知り、第九章でソシュールの死後の生に思いをはせる。
 その最後の節でブーイサックは、英語圏におけるソシュール思想のもっとも重要な紹介者(ただしソシュール理論を支持しているわけではない)ロイ・ハリスの次の言葉を引用する。「ソシュールをめぐる歴史はまだ終わっていない」。
 そしてジュネーヴやパリの学者サークルのように無条件にソシュールを礼賛し文化的ヒーローに祭り上げるよりも、「不本意ながら」学究生活の大部分をソシュール研究に捧げたハリスの愛憎半ばする態度のほうがソシュールの重要性を的確に反映していると書く。


ソシュールは「言語学アインシュタイン」などではない。そもそも、そんな人物はまだ現れていない。厳しい探求を通して、ソシュールは言語という大きな謎に正面から取り組み、ときに戸惑った。しかし、答えぬままに終わった疑問は、おそらくあれだけの知性と誠実さを備えた思想家だからこそ問うことのできた、最良の類の疑問だった。ソシュールの未完の仕事はかけがえのない遺産であり、考察を重ねていくべき問題だ。》(237頁)


 この結末に万感の共感を覚えるとき、ソシュールの未完の仕事をかけがえのない遺産として生成途上のなまの姿で受領し、現在なお進行中の言語探求の旅に加わることを慫慂し、促し、誘惑するこの読者参加型の小説(小説とは本来読者参加型のものなのだから同語反復だが)は完成する。


 ラングやパロールシニフィアンシニフィエ、そんな概念のことならもうとうに知っている。
 ソシュールの思想が弟子たちの手になる(ソクラテス以前の哲学者たちの断片集のような、203頁)偽書によって誤って、もしくは不十分に伝えられ、そうであるにもかかわらずプラハ言語学サークルやその主要メンバーであったニコライ・トゥルベツコイ、ローマン・ヤコブソン、さらにルイ・イェルムスレウやミハイル・バフチンによって受け継がれ、やがてモーリス・メルロ=ポンティクロード・レヴィ=ストロースロラン・バルトジャック・ラカンジャック・デリダ等々のフランス現代思想綺羅星のごとき担い手たちに引き継がれていったこと(ブーイサックいわく「ソシュール思想の哲学的濫用」229頁)もよく知っている。
 そんな聞きかじりの知識をいっぱいためこみ、とっくにソシュール入門を果たした気になっている(この本を読む前の私のような)読者こそ、周到な企みと工夫が凝らされたこの超入門書をひもとき、「ラングをつくっているのは言語記号、つまり、聴覚イメージと概念の分離不可能な結合体なのだ」(192頁)とか、共時態の視点から見た言語とは「複雑な差異のネットワークを通して単語のアイデンティティや意味を決定する関係性のシステム」(198頁)であり「言語記号はお互いに虚定的[ネガティヴ]な関係によってアイデンティティをもつ」(236頁)のであるとか、「ソシュールは言語における本質は時間だ、と主張していた」(232頁)といった整理された言い方ではけっして汲み尽くせない「ラング生誕」の血みどろの物語の底知れない深さを体験すべきなのだと思う。


     ※
 補遺。「ソシュール思想の哲学的濫用」について、ラカンデリダに言及した箇所が(皮肉が利いていて)印象深いので抜き書きしておく。


ラカンは『一般言語学講義』とプラハ学派の概念を二、三借用し、独自の趣のある用語を組み合わせて新しいフロイト派のパラダイムを提示し、長くパリのインテリたちに影響を及ぼし続けている。言語の変化は無意識的なものだというソシュールの主張の微かなつながりを手がかりにして、ラカンフロイトの言う無意識も言語のような構造をもっており、「圧縮」や「置き換え」はヤコブソンの言うメトニミー(換喩)とメタファー(暗喩)の二項対立に翻訳することができる、と主張した。フロイトソシュールの概念体系を融合したラカンの主張は、翻訳不可能でこじつけのようなフランス語の言い回しを体系的に使っており、わざわざひじょうに不明瞭な言説をつくりだしている。
(略)言語学については表面的な知識しかもっていなかったデリダは、手のこんだ詭弁を弄して、ソシュール言語学の土台、すなわち話し言葉が書かれた言葉に対して優位だとするヒエラルキー的関係をひっくり返し、逆説的に書かれた言葉が話し言葉に対して絶対的に優位性をもつと主張した。
 面白いことに、デリダもバルトも、ソシュール主義の特徴と思われるものを拾い上げ、その偽りを象徴的に暴くというスタイルで名声を築いたのだった。しかし、彼らの『一般言語学講義』の読解はバイアスがかかっており、都合のよいところだけを選択的に取り上げていたし、この本が出版されら特殊な状況もまったく考慮していなかった。とはいえ、彼らの偶像破壊的態度そのものが、逆に、フランスの知的地平にソシュールの思想がつねにつきまとい、没後五十年以上経って英語圏にまで波及したことを物語っている。》(227-228頁)


     ※
 私的な補遺。本書付録2の「引用されるべきソシュール」に次の断片が収録されている。「言語の本質(「ラング」)の基本的性質とその関係は数学的に表現される。このことが理解される日がきっとくるだろう。」(247頁)
 ソシュールは「一つの言語という、複雑な記号システムを構築している多次元的かつ抽象的な関係を表現する適切な手段としては、代数しかない」と確信していた(175頁)。ここでブーイサックがいう「代数」とはハミルトンの「四元数」のことである。
 また、ソシュールによれば共時態と通時態を説明するには(垂直・水平の二つの座標軸によるよりも)三次元のほうがふさわしいとブーイサックは書いている。「言語記号のシステム[あるラングを形成する共存的関係のすべてを示す平面]が、時間軸に沿って無数の時点ごとに積み重なっているようすをイメージすると、多数の層がかさなった六面体[キューブ]ができあがる。その一つ一つの層において、一つのラングがフルに機能しているのだ。」(186頁)
 これらの記述を読みながら、私はノヴァーリスの(あのめくるめく)断片群を想起していた。じっさい次の言葉はノヴァーリスについて語られるものと読んでさしつかえないものだと思う。「ソシュールの手稿そのものは、ソシュール自身と同じく、[本書第五章、第七章の解説より]はるかに豊かで複雑だ」(230頁)「何千枚もの手稿とそこに書き残した図形から見えてくる、より複雑なソシュールが存在する」(240頁)。