分離と結合



オクタビオ・パス『弓と竪琴』(牛島信明訳,岩波文庫


 オクタビオ・パスの文章は野性的で甘美だ。知性の経糸が荒々しく分離した断片を官能性の緯糸が繊細に縫合し結合する。
 夢を見るようにして読み終えたいま、この巨大な書物からいくつかの美しい文章をきりだして書きとめる以上のことが私にはできない。


 宗教(聖なるもの)と詩と愛(エロティシズム)の関係をめぐる論考「詩的啓示」のなかで、オクタビオ・パスは「愛の喜びは存在の啓示である」(255頁)と定義し、「女の出現」=「愛の突然の〈現存[プレセンシア]〉」とともに「すべてが輝き始め、意味を獲得する」さまを次のように叙述している。
(愛の喜びは存在の啓示である! この類の断定が本書のもうひとつの魅力で、かつて読んだ『二重の炎―─愛とエロティシズム』にも、「エロティシズムとは肉体の詩であり、詩とは言語による性愛である。」や「詩的イメージは対立する現実の抱擁であり、押韻は音声の交接である。」等々の忘れがたいフレーズがあった。)


《地中深く湧き出る水のように、また浜辺をおおう海のように、諸々の〈現存〉は表面に帰ってくる。すべて見たり、触れたり、感じたりすることができるものである。存在と外見は一にして同じものである。何ひとつとして隠れているものはなく、すべてそこに在って輝き、それ自体によって充満している。存在の潮。存在の波に運ばれて、わたしは君に近づき、君の胸に触れ、肌を撫で、その目を深くのぞきこむ。世界は消え去る。もはや何もなければ誰もいない──事物と、その名前、その数、そしてその記号は、われわれの足下にくずれ落ちてしまう。もはやわれわれはことばを持っていない。われわれは自分の名前を忘れてしまった、そしてわれわれの代名詞は混同し、からみ合ってしまう──わたしは君であり、君はわたしである。投げ上げられたわれわれは、上昇する。そして、互いにしがみつきながら落ちでくるが、一方、名前や形態は流れ出し、消滅してしまう。君の顔は、川を上に下に逃げてゆく。〈現存〉は足場を失い、深みにはまって、自らの中で溺れてしまう。肉体は肉体を失う。存在は虚無の中にとびこむ。存在は無である。無が存在である。わたしは目を開ける──異質な肉体。存在はふたたびその姿を隠し、諸々の外見がわたしを取り囲んでいる。その瞬間、問いが湧き上がってくるが、それは、このどうしようもなく異質な〈現存〉の向こう側には何があるかを知るための拷問である。この問いは、愛にあらゆる絶望を包含している。なぜなら、この〈現存〉の虚無から、存在が起き上がってくるのである。
 愛は死に流れこむ。しかし、われわれはその死から誕生に向かう。愛は死であり、生誕である。マチャードは「女は存在の表面である」と言う。純粋な〈現存〉たる女の中において、存在は顕在化し、現前するようになる。そしてまた、彼女の中に沈潜し、隠れる。このように、愛は存在と虚無の同時的啓示である。それは受動的な啓示、つまり演劇のような、われわれの眼前で現われたり消えたりするようなものではなく、そこにわれわれが参加するような、われわれがわれわれ自身のために作るような何かである──愛は存在の創造である。そしてその存在はわれわれの存在である。われわれ自身が、われわれを創る時にわれわれを絶滅させ、われわれを絶滅させる時にわれわれを創るのである。》(257-259頁)


 またエピローグ「回転する記号」には、次の叙述がでてくる。
(引用箇所に先立つ文章には「詩とは他者の探求、〈他者性〉の発見である。」という究極のフレーズがでてくる。正確に抜き書きすると、「詩的想像は発明ではなく、実在するものの発見である。散乱した断片として現われているものの中に、世界のイメージを発見すること、ある‘もの’の中に他の‘もの’を知覚することは、言語に本来の比喩力──他者を実在させる力──を戻すこととなろう。詩とは他者の探求、〈他者性〉の発見である。」(440-441頁))


《〈他者性〉の体験は、物理学から生物学までの、存在のあらゆる発現に見られる、分離と結合という、ひとつのリズムの両極端の音を包含している。人間にあっては、そのリズムは沈下、つまり見知らぬ世界における孤立感として、また結合、つまり全体との調和として表現される。われわれは例外なく、瞬間的には、分離と結合の体験を持っているはずである。真実の恋におちいり、その瞬間が永遠であると感じたあの日。われわれ自身の無限の中に沈潜し、時間がその内部をさらけ出す中で、自らを消えゆく顔として、また無効になることばとして眺めたあの時。野原の真ん中で樹を眺めながら、今では思い出すことはできなくても、木の葉や、空のゆらめきや、夕日の最後の光を受けた白い壁の反射がささやくことを感得したあの夕暮れ。草の上に横たわって、植物のひそかな生命の鼓動を聞いたある朝。あるいは、大きな岩の間に沸きあがる水を見ていた夜に。一人で、あるいは他人と一緒になって、われわれは〈存在〉を見たのであり、また〈存在〉がわれわれを見たのである。それは〈もうひとつの生〉であろうか? それこそが日々の生、本当の生なのである。(略)わたしの関心をひくのは、あの世の〈もうひとつの生〉ではなく、‘ここ’の生である。〈他者性〉の体験が、まさしく‘ここ’における、〈もうひとつの生〉なのである。詩は人間に対し、その死を慰めることを目的とするのではなく、生と死は不可分であること──全体をなしていること──をかいま見せようとするのである。個々の具体的な生を回復することは、生=死のペアを結合し、他者のなかに自分を、わたしのなかに君を取り戻すことであり、かくして、分散した断片のなかに世界の形姿を発見することになるのである。》(454-455頁)


 オクタビオ・パスは続けてマラルメの『骰子一擲[とうしいってき]』にふれ、「来るべき詩にとってきわめて重要なこのテキストについて、これまで書かれた最も濃密な、最も輝かしいエッセーのひとつにおいてモーリス・ブランショは、『骰子一擲』はそれ自体の読みを包含していることを指摘している。」(460頁)と書いている。
  私的な話題。これはまったくの偶然なのだが、そのブランショの文書を収めた『来るべき書物』こそ『弓と竪琴』につづけて読んでいる書物だった。


     ※
 書名はヘラクレイトスの断片に由来する。
 その断片は鎌田雅年氏の「Eleutherion」に掲載されている。
いかにして相違しつつ和合するかを彼らは理解しない。それは逆に張り合うことによる調和なのだ──あたかも弓やリュラ[竪琴]のそれのように」(断片51)


 本書には(たしか)二度ヘラクレイトスの名がでてくる。
 一度は「ヘラクレイトスのポレミックな存在論──宇宙は弓や竪琴の弦のような、緊張状態にある」(341頁)のかたちで。オクタビオ・パスはこれを「人間の神秘性は、人間が宇宙の秩序の一歯車、大協奏曲の一和音でありながら、同時に、自由であることに存する」(341-342頁)と敷衍している。
 二度目は本論の最後の文章のなかで。


ヘラクレイトスによるひとつのイメージがこの本の出発点であった。その終わりにあたり、そのイメージがわたしの前に現われて来る──人間を聖化し、かくして彼を宇宙に位置づける竪琴、そして人間を彼自身の外に向けて発射する弓。あらゆる詩的創造は歴史的なものである。あらゆる詩は、連続を否定し、永続的な王国を樹立しようという願望である。もし人間が超越、つまり、自己を超えるものならば、詩はその継続的な自己超越の、永続的な自己想像の、最も純粋な記号である。人間はイメージである。なぜなら彼は自己を超越するから。おそらく、歴史意識と歴史を超越する必要性とは、常に自己から分離している、そして常に自己を探求している人間存在という、この古い、そして永続的な分裂に対して、今われわれが与えている名前に他ならないであろう。人間は自分の創造物と一体化し、自身と、そして仲間と結合すること──自身であり続けながら、世界となること──を希求する。われわれの詩は分離の意識であり、分離したものを結合しようとする試みである。詩において、存在と存在に対する願望は、果物と唇のように一時的に和合する。詩、瞬間的和解──昨日、今日、明日、そして‘ここ’と‘そこ’、そして君、わたし、彼、われわれ。すべてが存在している──それは、現存となるであろう。》(479-480頁)


     ※
 断片、断章つながりでもう一つ書いておく。
 ドイツロマン主義の詩人たちは本書では重要な位置づけがあたえられている。とりわけノヴァーリスの名は特権的な場所をしめていて、その断片も再々引用されている。ドッグイアをたどって気がついたものを孫引きしておく。見落としがあるかもしれない(とくに
「実体のないことば」の章の405頁以降)。


「女性は至高の肉の食物である」(226頁)
「心が自らを感じ、あらゆる個別的で現実的な対象から解放されて、それ自体の観念的対象となる時、そこに宗教が生まれる」(235頁)
矛盾律を破壊することは、おそらく高等論理の最も高度な仕事であろう」(282頁)
「詩とは野生の状態におかれた宗教のようなものであり、宗教は実践的な詩、生きられ、そして行為となった詩にすぎない」(パスの間接引用、283-284頁)
「詩は作ることをしないが、人が作るのを可能ならしめる」(パスによる修正版、286頁)
「宗教とは実践的な詩に他ならない」「詩は人類の本源的宗教である」(400頁)
「自分が夢見ているのを夢見る時、覚醒は近い」(506頁)