大見忠弘教授の講演・保坂和志と石川忠司の対談

東北大学大見忠弘教授の講演を聴いた。
以前東京であった講演の記録を読んでいたので格別新しい情報はなかったけれど、肉声と肉顔に接しながら聴くとさすがに迫力がある。
基礎研究から実用化までのプロセスをリニアにではなく産学官連携の「ターゲット・ドリブン」方式で進める。
これは組織経営から個人の仕事にまで応用できる。
会場からの質問への応答が面白かった。「日本にこれまで金融があったんですか」。
深い絶望としなやかな楽観、怒りと情愛が複雑に同居した人物。
週刊新潮」にスキャンダル記事が出ていたが、あれはかえってこの人の「奥深さ」を語っている。
講演の前、昼食を共にして、会場の片隅の喫煙コーナーでも立ち話をした。
いまやっていることが世界初のことなのかどうか気になって、一刻が惜しいんですよ。
記憶がはっきりしないが、紫煙のなかでこの人はたしかそんなことを口にした。


     ※
『群像』10月号を買った。保坂和志石川忠司「小説よ、世界を矮小化するな」だけを読みたくて買った。
これまでの経験からいって文芸誌や総合誌を隅々まで読めたためしがない。
で、さっそく『現代小説のレッスン』と『小説の自由』を上梓したばかりの二人の対談を読んだ。面白かった。
保坂和志いわく「僕は、小説は部分だけ読んでいて構わないと思っているのね」(206頁)。
「最近僕はエッセイを十五枚ぐらいの長さで書くことにしているんです」。
「でも、彼[村上春樹]は考えをつくったんじゃなくて、文章をつくったんだよね。だからみんなに使われる。村上春樹以降の人は、文章で小説を書くんじゃなくて、考えで小説を書かなきゃいけないと思うんだよ」(210頁)。
「[五枚から十枚ぐらいの長さでまとめられた]エッセイみたいにこぢんまりとした作品を完成させるのに都合のいい文章は持っているんだけど、とめどなく考えを先に進められる文章は持っていないということなんだと、今僕は思っている」(210頁)。
「比喩というのは世界に向かわず、言語の中で次から次に移っていくことだ……だから、やっぱり比喩を使っていたら世界[リアリティ]は開示されない、きっと。…言語と世界をいかに結びつけるかということを忘れたら小説は大人が真面目に読むものじゃなくなると思う」(214頁)。
石川忠司が「2001年の保坂和志」(『世界を肯定する哲学』)と「2002年の保坂和志」(「文学のプログラム」/『言葉の外へ』所収)を図式化して、その間の「ゆらぎ」もしくは「矛盾」を衝いていた。
両者に共通しているのは「人間(肉体)に対する世界(存在)の先行性」(211頁)なのだが、「図式1[2001年]では世界の先行性、世界と人間の断絶を敢行していたのは言語の「裏地」、言語の肉体的側面だったのが、図式2[2002年]では逆に言語の「表地」、肉体性からかけ離れた純粋な論理・思考的側面になっている」(212頁)。
保坂和志いわく「それは自分だってわかっていないんだもん」。
石川「しっかりしてよ」。
保坂「人任せにするなよ(笑)」(213頁)。
以下、世代交代(バトンの受け渡し)を描く小説、空間の中での「私」の消滅、いいことも悪いことも何も「起こらなかったことに××する」のその「××」を考えること、といった話題がつづき、最後に保坂・石川両人の「今後の予定」が語られる。
保坂和志いわく「「小説をめぐって」の連載は、やっぱり小説を書いているわけじゃないから、小説を書きたい」(219頁)。
『小説の自由』は現在も続く「小説をめぐって」(『新潮』連載)の最初の十三回分をまとめたもの。
(二人の対談を読みながら、昔読んだマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』を想起していたのだが、このことはまた別の機会に書く。)


石川忠司がいう「ゆらぎ」は私もおぼろげに感じていて、それは小説とは感覚の運動であるという『小説の自由』前半の規定と、小説とは思考の手順を総動員して書きつづけることだという後半の規定との間に、あるいは小説とはフィクションという第三の領域を立ち上げることだという前半後半を通じた規定と、『〈私〉という演算』のあとがきにある「ぼくにとって小説というのは、フィクションであるかどうかということではたぶん全然なくて、歌かどうかということであるらしい」という規定との間に漠然と漂う異和感のようなもののことだ。
もっとも『〈私〉という演算』のあとがきは「こここにある文章はその「歌」から最も遠いところで書かれているのだけれど、その分、思考の生の形に近い」とつづき裏地と表地はつながっているのだが、そのあたりはとても危うい。
それにしても石川忠司の図式はとても便利なもので、「物質性─精神性─フィクション(第三の領域)」という保坂和志の三項関係(9月4日の日記に書いた)にあてはめて「言語の裏地(肉体性:感覚の運動)─言語の表地(記号性:思考の手順)─世界(リアリティ)」と変形してみたり、今読んでいる茂木健一郎『「脳」整理法』の議論(「世界知=ディタッチメント」と「生活知=パフォーマティブ」、「偶有性」と「神の視点」)と関連づけたりすると面白い。
言語の裏地における「肯定/否定」「全体/部分」「容器/中味」の関係は、マテ・ブランコの『無意識の思考─心的世界の基底と臨床の空間』とも関連しているはずだ。