『記憶と生』(第3回)

あいかわらず「持続の本姓」に収録された五節分の文章の周辺をうろついている。
前田英樹さんが「訳者まえがき」に、「ひとつの節ごとを、節と節との繋がりを、ごくゆっくりと読んでもらいたい。そうすれば、ドゥルーズの考案したタイトルの総体が、いかに驚くべきものかも、だんだんとわかってくる」と書いている。
驚くためにはゆっくりと読まねばならない。
「コップ一杯の砂糖水を作りたいとすれば、どのようにしても、…砂糖が溶けるのを待たねばならない」(18頁)ように。
あるいは、太極拳の緩慢な動きのうちに、高密度の力の塊を解き放つように。
そういえば、読書の体験は「持続」を思わせる。
ベルクソンは、「夢」の例をあげて純粋意識の領域を説明していた。
「その時、私たちは、もはや持続を測定するのではなく、感じる。持続は、量から質の状態へと復帰する。流れた時間の数学的認識は、もはや行われない。」(15-16頁)
だとすると、読書の時間は夢に似ている。
読み終えた頁数や要した時間の多寡が問題なのではない。
ふと気がつくと、読み終えていた。そのような読書の体験から遠ざかって、もうずいぶん久しい。


ものを書くという体験もまた同様だ。
(ふと気がつくと、書き終えていた。だとすると、その時書いていたのは、いったい誰なのだろうか。)
いま引用した夢の話に続けて、ベルクソンはこう書いている。

目覚めている状態においてさえ、日常の経験は、質としての持続、すなわち意識が直接に到達し、たぶん動物も知覚する持続と、言わば物質化された時間、すなわち空間内の展開によって量となった時間とは、区別すべきであると私たちに教えている。私がちょうどこの数行を書いているとき、近くの時計が時刻を打っている。だが、うわのそらの私の耳がそれに気付くのは、すでに何回かの鐘の音を聴いたあとである。だから、私はそれらを数えてはいなかった。それでも、私がすでに鳴った四つの鐘を合計し、それらを今聴いている鐘の音に付け加えるには、振り返る注意の努力があればよい。もし、自分自身に立ち返り、そこで今何が起こったかを注意深く自問してみるなら、私が気付くことは、まず最初の四つの音は私の耳を打ち、意識さえも揺るがしたということ、ところが、それぞれの音によって生じた感覚は、並置されたのではなく、互いに溶け合っていたということだ。それは、全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方によってである。(16頁)

ここを読んで、とくに「全体に固有の面貌を与え、全体を一種の楽節とするようなやり方」というところを読んで、私は、このところ毎晩、就寝前のほんの数刻をベットに腹ばいになり、日替わりでとっかえながら読み進めている(というか、目をあけたまま夢を見るようにして眺めている)二冊の本のことを想起した。
レヴィ=ストロースの『神話論理Ⅰ』とヒッチコックトリュフォーの『定本 映画術』。
いまなにを連想していたのかは、覚えていたら、明日書く。