オスカー・ベッカーのこと─永井均が語ったこと(その18)
「横並びの関係の中で、つまりいっぱい主体が存在する中で、ひとつだけ他と全然違うやつがいる、内容がその本質ではなく、単なる存在がその本質であるやつがいる。それはいったい何なのか」(208頁)。
この話(問題)は主客図式中心の西洋哲学の歴史においてもかなり新しいもので、20世紀になってウィトゲンシュタインが初めてはっきりと(この問題を)言い、ハイデガーがそれ(〈私〉の存在)に近いことを言った。
永井均さんはそう語っている。
(「単なる存在がその本質である」という言い方は気になる。誤解を招くと思う。
外の箇所ではこんなふうに言われている。たとえば…
「本質とか属性とか機能とか、そういう存在したものが持っている、ただただ持っているもの」に関することについては誰か代わりの人にやってもらうことができるが、死だけは他人に代わってやってもらうことはできない。チェスの比喩で言う冠、つまり山括弧のことが問題になるからだ(223-224頁)。
…ここで「存在」と対比させて使われている「本質、属性、機能」、前回の言葉で言えば「アクトゥアリテート」に対する「レアリテート」は、「単なる存在がその本質である」と言われるときの「本質」とは全然別のものだ。)
ところで、ウィトゲンシュタインとハイデガーはともに1989年生まれで、この年にはヒトラーも生まれている。そしてオスカー・ベッカーも。
そのオスカー・ベッカーは、自分が死ぬということに目覚めた「本来的 eigentlich」な自己とそこから「頽落 verfallen」した非本来的な自己、というハイデガーの区別を批判した。
それは確かに自己固有(eigen)という意味では本来的かもしれないが、実はそれは根源的ではない、と。