非本来的根源性─永井均が語ったこと(その19)

 前回の続き。オスカー・ベッカーのハイデガー批判について、永井均さんが『〈仏教3.0〉を哲学する』の中で語ったこと。


《時間に関して言うと、日常的、世間的な、いわゆる頽落的な時間状態でもなければ、歴史的な一回性、つまり目覚めた本来的なあり方でもないような、ちょうど天体の運動のような永遠の反復というのもあって、そこには宇宙的な永遠の現在があるんだ、ということをベッカーは言うわけです。ベッカーはしかもこれを「無我」という言葉を使って、無我的な生き方だといって、それは死を気にしない生き方だと言う。ハイデガーのように死をものすごく重視して、俺は死ぬぞ、死ぬんだから、そのことを意味あるものにするにはどうしたらいいのか、というふうに考えるのではなくて、その逆で、全く死に思い至らないわけではないが、思い至りつつもそれを気にしない生き方がある、と。それで、これを、本来的ではないような根源性、非本来的根源性と言うんですね…。本来的というのは、ここでは自己自身的、自己固有的という意味ですが、自分自身の死をやたらと気にするという意味ですね。そうではないような、無我的な根源性がある、というふうにベッカーは言うわけです。》(227頁)


 ここで言われていることは、『ピュタゴラスの現代性』に収録された「パラ実存」という論文で議論されていることだと思う。


 ところで、永井均さんのこの発言を読んで、オスカー・ベッカーにいたく興味を覚え(昔読んだような記憶があるが、空覚えならぬ空記憶かもしれない)、訳書、関連本をいくつか手元に揃え、買い集め、借り集めた。
 美学と数学論の組み合わせが魅力的だし、「パラ実存」という概念にも惹かれる。


◎オスカー・ベッカー『美のはかなさと芸術家の冒険』(久野昭訳,理想社:1964)
◎オスカー・ベッカー『数学的思考──ピュタゴラスからゲーデルへの可能性と限界』(中村清訳,工作舎:1988)
◎オスカー・ベッカー『ピュタゴラスの現代性──数学とパラ実存』(中村清訳,工作舎:1992)
◎『稲垣足穂全集[第9巻]宇治桃山はわたしの里』(筑摩書房:2001)
長田弘編『中井正一評論集』(岩波文庫
九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫


 松岡正剛さんの「千夜千冊」の0748夜が『数学的思考』を取り上げている。その末尾に「参考」として書かれていることがとても興味深い。(稲垣足穂全集第9巻には、オスカー・ベッカーの論文の足穂訳を含む「美のはかなさ」が収録されている。)


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 以上、「数学的思考」にのみ迫るオスカー・ベッカーを“ストイック”に紹介したのだが、実はベッカーにはもうひとつ、「美のはかなさ」をめぐる震撼とするような美学があって、ぼくはこちらのほうをずいぶん早くに稲垣足穂によって堪能させられてきた。詳しくは『フラジャイル』(筑摩書房)76ページ以降を読まれたい。
 なぜベッカーを『フラジャイル』で言及したかというと、ベッカーは1929年のフッサール生誕70年記念号の「哲学現象学研究年報」で、「美のはかなさ」の本質としてフラジリティ(ドイツ語でFragilitat)を持ち出したのである。そこにはちゃんと「壊れやすさ」(Zerbrechichkeir)が議論されている。
 これでさらにおわかりのように、ベッカーは「数学だって“はかない”ものなんだ」「そこには不完全で壊れやすいところがあるから、だから美しいんだ」と言いたかったわけなのである。
 なお、「千夜千冊」第689夜にも書いておいたように、日本で最初にベッカーに注目したのは九鬼周造だった。九鬼はベッカー自身にも会っている。
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