死ねない〈私〉─永井均が語ったこと(その20)

 続けて永井均さんの発言を引く。


《この本来的でない根源性、つまり無我的=独我的な観点から見ると、私は死なない、というか死ねない、ということが言えるのではないか、ということをここからはベッカーでもなく、ハイデガーでもなく、私の話として言ってみたいと思います。なぜかと言えば、さっき言った無我的=独我的な〈私〉というのは、そもそも死ぬようなものじゃないんですね。死ぬようなものじゃないっていう言い方が変だけど、全てでありかつ無ですから、時間的にも全てでありかつ無なんですね。このことを細かく言うには、〈今〉と〈私〉の関係の話をしないといけないのですが、それは今日はできないので、〈私〉に関してだけで、この話をしてみます。死なないと言っても、普通の意味で永遠に存在し続ける、ということを言いたいんじゃなくて、むしろ逆で、それが全てだから、それの存在こそが永遠性を定義している、という意味ですね。》(228頁)


 永井均さんが語っているのは、「知的な問題」としての〈私〉の不死性、つまり「全てでありかつ無」であるものの不死性の話である。
 だから以下に述べることは的外れの議論なのだが、「不死」の語を目にすると必ず想起することがある。
 以前「魂脳論」というエッセイを書いた際、『ボルヘス、オラル』に収められた「不死性」から次の文章を引用した。


《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。(略)重要なのは不死性である。その不死性は作品のなかで、人が他者のなかに残した思い出のなかで、達成されるものである。(略)音楽や言語に関しても、それと同じことが言える。言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語を使っているが、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。(略)われわれはこれからも不死でありつづけるだろう。肉体の詩を迎えた後もわれわれの記憶は残り、われわれの記憶を越えてわれわれの行為、行動、態度といった歴史のもっとも輝かしい部分は残ることだろう。われわれはそれを知ることができないが、おそらくはそのほうがいいのだ。》


 死なない(死ねない)のは「言葉」である。もしそんなことが言えるとしたら、〈私〉とは〈言語〉である。