知的な問題と修行の問題─永井均が語ったこと(その21)

 続けて、死なない〈私〉をめぐる永井均さんの発言を引く。


《それで、この話は、アキレスと亀の話と同じだと思います。(略)
 これは、論理的にはそうなるけど、実際には追いついて追い抜くじゃないか、というふうにみんなが思うわけですけど、実はそうじゃないんですね。(略)ゼノンが言っているのは、アキレスが亀より速いということだけなんですね。この条件だけしか与えられていないわけです。それで、アキレスの方が亀より速いってだけですから、たとえば、アキレスが亀が前にいた位置に達するごとに、二人ともの速さがどんどん遅くなってもいいわけなんですね。どんどん遅くなっていけば、永遠に追いつけませんね。(略)
 それで、これと、私が死ねないという話は、本質的には同じ話です。つまり、外部に客観的な世界というものを想定しない限り、私の死は訪れませんから。これをすべてだとしても、無だとしても、無は死なないですよね。無だから死なないし、すべてだとしても、すべてには外部がないから、死ぬなんてことはありえない。そもそも私の死ということが、とてつもない重大事として成り立つためには、その内部しかないという視点とその外部があるという視点の、矛盾した両方の視点を往き来する必要がありますね。私の死というのはそういう矛盾した観念ですね。どっちか一本槍で行った場合は、私は死にません。》(229-231頁)


 永井さんご自身は、私は死なないんだという結論に安心立命を得ているわけですか?
 この問いに答えていわく。


《いや、僕は、さっきも言いましたけど、立場に立たないから、二つの考え方がありますよ、と言って、その構造を細かく見るだけですから、場合によって、こっちに行くと安心立命に近くなって、気分もそれで変えられて、何だそうか、そうだなと思うことができますが、これはできない時もありますね。どう言ったらいいんですかね、これはやっぱり知的な問題だから、ある種の情念や情緒が強くなって、スイッチを変えたくても変えられない状態になることがありうる。これは仏教の修行の方の問題ですね。知的な問題じゃなくて。そっちの方面の問題ですけど、何で鍵が掛かって、行かせなくしているのか、という問題がありますね。》(231頁)


 『〈仏教3.0〉を哲学する』で、ここが一番スリリングだった。