本のリストと若干の抜き書き──ペルソナ・ヒュポスタシス・その他

 一昨日までで、一応の構想がまとまった。「クオリアとペルソナ」というまだ仮称のタイトルのもとで、ここ十年あまり取り組んできた作業の集大成をやってみよう。何年かかるかわからないけれど、また、今の意気込みがどこまで続くかわからないが、とにかくやってみよう。そう腹をくくると、いわく言いがたい開放感(解放感より開放感)のようなものが訪れてきて、とても気分がいい。新しいノートを買って、いろいろ書き込みをやっていると、なお気分がいい。それだけでもう何事かを成し遂げた気持ちになってくる。
 まずは、永井均西田幾多郎』と尼ヶ崎彬『花鳥の使』の重ね描きから始める。戦術は決めている。地道に一点集中、先走らず着実に。だのに、やっぱり気持が先走る。あれこれ読みたくなる。「ペルソナ」に関連する書物を求めて、図書館に出かける。ドゥンス・スコトゥスのペルソナ論を取り上げた八木雄二『「ただ一人」生きる思想』は見つからなかったが、既読、未読の関連本、無関連本を借りてきてしまった。気持ちが少し濁ってくる、というか拡散していく。


山田晶・責任編集『世界の名著20 トマス・アクィナス』(中央公論社:1980)
坂口ふみ『〈個〉の誕生──キリスト教教理をつくった人びと』岩波書店:1996)
八木雄二『中世哲学への招待──「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』平凡社新書:2000)
八木雄二『イエス親鸞』(講談社選書メチエ:2002)
◎加藤隆『一神教の誕生──ユダヤ教からキリスト教へ』(講談社現代新書:2002)
檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学──ベルクソンドゥルーズと響き合う思考』(講談社現代新書:2005)
◎『ハイデッガー カッセル講演』(後藤嘉也訳,平凡社ライブラリー:2006)
◎湯田豊ツァラトゥストラからのメッセージ』(角川叢書:2006)
保坂俊司『宗教の経済思想』(光文社新書:2006)
◎正高信男『ヒトはいかにヒトになったか──ことば・自我・知性の誕生』(岩波書店:2006)


     ※
 トマス・アクィナスの『神学大全』第一部は、神をめぐる三つの考察からなる。第一に神の本質に属することがら(第2問〜第26問)、第二に神の三つのペルソナに関することがら(第27問〜第43問)、第三に神からの被造物の発出に関することがら(第44問〜第119問)。世界の名著『トマス・アクィナス』に訳出されているのは第一の考察で、第二の考察は残念ながら収録されていない。
 ただ、ペルソナという語彙そのものは散見される。たとえば、第15問第2項「複数のイデアが存在するか」に出てくる次の文章とその訳注。


《もしもそれ〔複数のイデア〕がただ被造物においてのみ実在するものであるとすれば、被造物は永遠から存在するものではないから、もしイデアがこのような関連のみによって複数化されるとすれば、イデアの複数性は永遠からのものではないことになろう。またもしそれが神のうちに実在するとすれば、ペルソナの複数よりほかの実在的複数性が神のうちに在ることになる。これは、「不生、出生、発出」以外には、神においてはすべてが一であるというダマスケヌスのことば(2)に反する。それゆえ複数のイデアは存在しない。》(『トマス・アクィナス』436頁)


《(2) 『正統信仰論』第一巻一○章。ギリシア教父第九四巻八三七。「不生」ingeneratio は御父のペルソナを、「出生」generatio は御子のペルソナを、「発出」processio は聖霊のペルソナを表わす。これについては、第二七問「神のペルソナの発出について」において論じられる。》(同440頁)


 補遺(2007/01/31)。上記の議論に対するトマス・アクィナスの反論とその訳注。


イデアを多数化する諸関連は、被造物のうちに在るのではなくて神のうちに在る。しかしながらそれは、ペルソナがそれによって区別される諸関連のような実在的関連ではなくて、神によって知性認識されている諸関連である(14)。》(同439頁)


《(14) 神における三つのペルソナは、神のうちに神から生まれる者とそれを生む者、生む者と生まれる者とから共通に発出する者と、その者がそこから発出する共通の根原との関係を根拠として実在的に区別される。ゆえに実在的区別を神のうちに生ぜしめるこれらの関係は「実在的関係」relationes reales、ないし「実在的関連」respectus reales といわれる。この問題については、第二八問「神の諸関係について」において論じられる。これに対し、神においてイデアが多数化されるのは、「神によって知性認識される関連」respectus intellecti a Deo によるのであって、これは実在的関係ではなく、単なる「概念的関係」relationes rationis にすぎないから、それがいかに神のうちに多数認められるとしても、それによって神のうちに何らかの実在的区別も生じないのである。》(同441頁)


     ※
 なお、スンマ第一部第29問に言及した文章が坂部恵「人称的世界の論理学のための素描」(『坂部恵集』第3巻)に出てくるので、抜き書きしておく。


《また、その発展途上で、いわゆる「人格」や神の「位格」を、元来「仮面」の意をもつ「ペルソナ」の語でとらえ、それを「理性的本性をもつ個的実体」(rationabilis naturae individua substantia)と規定した西洋哲学の思想が、こうして、実体あるいは基体(hypostasis)の概念を媒介として「ペルソナ」をとらえることによって、「ペルソナ」の概念がもともとそなえていた他者とのドラマチックなかかわりという本質的契機を追い追い欠落させて、自己完結的な実体あるいは今日のことばでいえば一つの閉鎖系という側面のほうを逆に浮かび上がらせて、ひととひととのパーソナルなかかわりの世界をありのままにとらえる道をかえって閉ざしてしまったというようなことが多少でもあるとすれば、これまた、奇妙なことではないのか。
 さきの個的実体としてのペルソナ規定から、デカルトの自己完結的な実体としての自我あるいは心の規定、ライプニッツの窓をもたぬモナドというかぎりでの自己完結的な実体、あるいは純粋に形式的普遍的な命令にまで還元された内面の良心の声にみずからの自己同一性のあかしを見いだすカントの道徳的人格までの道は、一見しておもわれるほど遠いものではない。》(169頁)


     ※
 ヒュポスタシスとペルソナの関係について、坂口ふみ『〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人びと』に刺激的な叙述がある。このことは、以前取り上げた「仮面考」のなかでふれたことがある。ここでは、その昔、ヘーゲルの『大論理学』を読んでいたときのノートを思い出したので自己引用しておく。


◆三位一体論について。山田晶アウグスティヌス講話』(新地書房)から。──
 父と子と聖霊の関係は、ニケア公会議(325年)においてギリシャ語を使って次のように定式化された。すなわち三者はウシア(本質)においては一であるが、ヒュポスタシス(土台・基礎・実体[substance])においては三であると。
 ここに出てくる「ヒュポスタシス」はプロティノス哲学における重要な概念である。この哲学ではまず万物の根源・超越者としての一者(ト・ヘン)が在り、そこから理性(ヌース)が、さらに理性から魂(プシュケー)が出てくるのだが、この一者・理性・魂がヒュポスタシスなのである。
 しかしギリシャの教父たちが父・子・聖霊をヒュポスタシスと名づけたとき、その内容はプロティノス哲学とは非常に異なったものになっている。すなわち、プロティノスにおけるヒュポスタシスは「一者→理性→魂」と下方に流出し三者は無条件に同一のものではないのに対して、三位一体論におけるヒュポスタシスは──子と聖霊は父から発出するのではあるが──それぞれ独立の相互に区別された性格をもっているのである。このことを強調するために、父と子と聖霊は「ウシア」において一であるとされた。
 ところで、西方教会では先の定式はラテン語で表記された。その際、ウシアはエッセンチァと、ヒュポスタシスはペルソナと訳されたわけだが、さらに聖霊が父から発出する際に子がどのようにかかわるかという問題をめぐって、ニケア・コンスタンチノポリス信経の「父より出ずる聖霊」という表現に「および子より」(フィリオ・クエ)を付加した。
 一方、東方教会では聖霊は父から「子を通して」発出するものと解されていた。そこでは三つのヒュポスタシスが「父→子→聖霊」と直線的な発出の線をたどるのである。これに対して西方教会では、三つのペルソナは「父と子→聖霊」と逆三角形のかたちを取る。
西方教会の三位一体論によれば、神は御自身を理解することにおいて御自身の似姿を御自身のうちに生み出します。かくて、神御自身のうちに生み出された御自身の似姿が「みことば」であり、それは生み出された者であるかぎり「子」と呼ばれ、それに対して生み出す者としての神は「父」といわれます。…ところでこのようにして神の「理解」のはたらきによって生み出された「子」と、それを生み出す神としての「父」との間には「愛」が生じます。「父」と「子」との間に生じた愛が、すなわち「聖霊」です。>
 ──ヘーゲルは、個別性とは<個性と人格性の原理>であるといっている。訳文にいう「人格性の原理」がペルゼーンリッヒな原理、つまりペルソナ的な原理をさしているのであれば、個別的概念としての普遍・特殊・個別が神の三つのペルソナに相当すると見ていいだろう。そして、純粋概念(普遍的概念)がウシアあるいはエッセンチァに相当すると見ることができるかもしれない。
 普遍的概念から特殊的概念へ、そして特殊的概念から個別へ、さらには概念の自己分割へと推移するヘーゲルの叙述は──中沢氏(『はじまりのレーニン』)がいうように──東方教会的な意味での三位一体論を下敷きにし、ヒュポスタシス(ペルソナ)の発出過程と相互関係を同時に示したものなのだろう。


和辻哲郎「面とペルソナ」から。──
<面は元来人体から肢体や頭を抜き去ってただ顔面だけを残したものである。しかるにその面は再び肢体を獲得する。人を表現するためにはただ顔面だけに切り詰めることができるが、その切り詰められた顔面は自由に肢体を回復する力を持っている。そうしてみると、顔面は人の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではなく、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。
 ここまで考えると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。…しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。>
 ──ここでいう面(顔面)は象徴ではない。概念もまたこのような意味での面(ペルソナ)である、といえるのだろうか。


     ※
 ついでに(何がついでか分らないが)、最近買った本のリストを書いておく。


廣松渉『もの・こと・ことば』(ちくま学芸文庫:2007)
五味文彦藤原定家の時代──中世文化の空間』(岩波新書:1991)
◎『古今和歌集(一)』(久曾神昇訳注,講談社学術文庫:1979)
山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書:2007)


 廣松本と五味本は「クオリアとペルソナ」(仮)に関連してくる。『古今集』は、その第一回「歌とクオリア」(仮)に「仮名序」を取り上げるため入手。山村本はそういう文脈のものではない。読み終えて「書評」を書かず放置したままになっている本がたまっていて気になって仕方がないので、敬愛する「狐」氏の文章に触れて、滞貨一掃への勢いを得たいと思った。
 それこそついでに、きちんと「書評」を書いておきたい本をリストアップして内圧を高めておく。(河野哲也『〈心〉はからだの外にある』や熊野純彦『西洋哲学史』を筆頭に、読みかけ本のリストアップもしておきたいが、それこそ心が濁ってしまうのでやめておく。)


檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学──ベルクソンドゥルーズと響き合う思考』(講談社現代新書:2005)
◎福田アジオ編『結衆・結社の日本史』(山川出版社:2006)
柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書:2006)
吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫:2002)
阿部謹也『近代化と世間──私が見たヨーロッパと日本』(朝日新書:2006)
◎ルネ・デカルト省察』(山田弘明訳,ちくま学芸文庫:2006)
◎渡仲幸利『新しいデカルト』(春秋社:2006)
小林道夫デカルト入門』(ちくま新書:2006)
◎篠原資明『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書:2006)
加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(筑摩書房:2004)
保坂和志『小説の誕生』(新潮社:2006)
堀田善衛『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫:1996)
永井均西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』(NHK出版:2006)