クオリアとペルソナ(備忘録1)

 12月7日に挙げた本のリスト12冊のうち、とにかく読み終えたのはたったの3冊。当初の予定では、これらを全部読み込んでから「コーラ」への寄稿文の第1回目を書くつもりだったので、これではまだ足りないはずだが、年明以来、想像がたくましくなって、とうとう「クオリアとペルソナ」という連載のタイトルとだいたいの骨格、方向まで決まってしまった。
 なにが楽しいといって、想像をたくましくしてなんらかの理論めいたものを考案するときが一番わくわくする。夢中になる。ところが、「理論」の枠組みがほぼ見えてきたとたんに、(たとえそれが見当違いのものであったとしても)、それまでの高揚が急速に萎んでしまう。手あかにまみれた「理論」に飽きがきて、気分が散漫になり、また次のオモチャがほしくなる。
 できれば数年、「クオリアとペルソナ」で遊びたいと思っている。そのためには、もし飽きがきたとしても、そのつどたちかえって確認できる原点(生まれたての「理論」の臍の緒のようなもの)を記録しておかなければいけない。判読不能になりつつあるノートに書きなぐった符丁のような文字や図式、そしていま頭のなかを遊弋しているものどもを、そのすべてはとても無理だろうけれど、せめて文字にできるものだけでも「救済」しておかないと、ことごとく無明の世界に没してしまう。
 そういうわけで、以下、忘却を未然に防ぐためのものではない、必ずや到来する忘却に備えるための記録(備忘録)を残しておく。


     ※
 理論めいたものを考えるとき、あるいは「理論」の面影を思い浮かべるとき、昔から物事を四つに区分して整理する癖がある。
 かつて、「私たちの社会」と「この私の世界」の構造と稼働の原理を「四」でもって解明しようと試みたことがある。「社会」についての粗描ができたところで作業が止まったままになっていて、「私」についても、その後、「魂の四学」をめぐる夢想妄想をでっちあげたところで行き詰まっている。昨年秋の「四人称世界」をめぐる考察も、その流れのうちにあるものだった。
 今回の「理論」もまた「クオリア」「志向性」「言語」「ペルソナ」の四つの項で組み立てられている。
 実は、「志向性」と「言語」がいまひとつ気にくわない。たとえば「ヒュポスタシス」と「ロゴス(ラチオとしての)」、もしくは「ピュシス(ウーシア)」と「ヴェルブム」といった語に置き換えたい(それが「理論」的に可能であればの話)。西洋由来の語彙ではなくて、「有」「無」「虚」「空」といった和風、東洋風の言い方も考えてみたい(同様)。そう思うのは勝手で、どうぞご随意にというところだが、いずれにしても「四」なのである。


 中沢新一の『バルセロナ、秘数3』に、西欧思想史には、プラトンデカルトニュートンアインシュタインなどの「3の信棒者(トリニタリアン)」と、ピタゴラスやカント、ゲーテショーペンハウアーといった「4の信棒者(クォータナリアン)」の二つの流れがあるという議論がでてくる。(「たがいに内包しあう否定機能にもとづく「縁」の関係にあるリアリティ」などという言い方を目にすると、クォータナリアンの末席を汚していると思いたくなるが、トリニタリアンの説明がやや平板でコクがないのが気になる。)


《トリニタリアン的思考は「否定」の機能を(+、−)の対立として、考えようとする。つまり対立を、極性―対立(polar opposites)としてとらえ、論理表現化しようとするのだ。これにたいしてクォータナリアン的思考は、論理における否定の機能を相補的対立(complementary opposites)と考える。運動量(p)と位置(q)のふたつを同時に確定することができないように、おたがいが相手を内包しながら否定しあっているような関係である。
 「否定」の機能(これは最終的には、言語の象徴機能の問題である)には、はっきりとふたつのタイプが存在して、思想におけるふたつの流れをつくりだしてきたのだ。古典科学やその方法をバックアップしたデカルト的合理論は、その表現のなかに(+、−)タイプの対立だけを認めようとした。これにたいして、量子力学は別のタイプの「量子論理」にしたがって、物理的リアリティを表現しようとしてきた。(略)
 量子論理(Quantum Logic)は、通常の(+、−)論理に比較すると、おそろしく複雑な構造をもっている。これは量子論理が、アリストテレス的論理学の因果律(Causality)にしたがうことなく、たがいに内包しあう否定機能にもとづく「縁」の関係にあるリアリティを論理化しようとこころみていることに関係がある。その意味でも、これは東方的な超論理学(中観仏教、聖グレゴリオ・パラマスによって大成されたギリシャ正教神学、イスラムの天使学など)と、深い内在的関係をもっているのである。》(『バルセロナ、秘数3』


 補遺。以前に書いた文章からの自己引用。
 ──これは鎌田東二著『身体の宇宙誌』(講談社学術文庫)の「まえがき」で仕入れた知識なのだが、出口王仁三郎は「ひ」(一、日、火、霊)が増殖・成長して「ふ」(二、増、殖)となり「み」(三、身)となり「実」をみのらせ「よ」(四、世、節)を形成すると語った。そうすると『三四郎』(夏目漱石)の「三」は「身」に「四」は「世」に通ずることになりそうだし、さらに悪乗りを重ねるならば「三」は「産」に「四」は「死」に通じ、いずれも「父母未生以前本来の面目」の問題(『門』)あるいは「生命記憶」の問題につながる?


     ※
 では、なぜ「四」なのか。それはたぶん「五」という秘数に到達したいがためだと思う。(では、なぜ「五」なのか、なぜ「五」が秘数なのか。それは判らない。四肢より五感といった類のことではない。三次元空間に四点を等距離に配置することはできるが、五点ではできない。そういった類のこと。)


 「零」を考えると、そこに零という一つのものが認識される。すると「一」になる。「零」は静で「一」は動である。
 「一」は自ずから、もしくはそこに外圧が加わって「二」に分割される(「二」が流出する、と考えることもできる)。そして、ある一つのもの、もう一つもの、それら二つのものの関係という「三」が生まれる。「二」は静だが「三」は動である。
 正反合の弁証法のように、正が反を経て合に移行する。そこから次の「三」の運動が始まる。そう考えてもいいが、それだと動から動への堂々巡りでしかない。「三」の運動の中に組み込まれた合は、所詮もう一つの「一」でしかないからである。
 正反合であれなんであれ、三項が成り立つこと自体、高次の『一』の立ち上がりを告げている。
 高次の『一』とその分割によって生まれる『二』が、「四」に至る二つの道をひらく。すなわち、「三」+『一』(三位一体)と「二」×『二』(二つの二項対立の重ね描き)。いずれも静である。動を内包した静である。
 前者(三位一体)のうちに孕まれた高次の動(『一』)から高次の静(『二』)が生まれ、この静のうちに低次の静が重ね描かれた結果が後者(二項対立の自乗)である。(永井均の表現を借りると、「開闢」から「開闢の奇蹟が開闢の内部の一つの存在者として位置づけられている」状態へ。)そう考えることもできる
 ところで、『二』は『三』を生み、この『三』からより高次の〈一〉が生まれる。そして「三」+『一』+〈一〉もしくは「四」+〈一〉で「五」が生まれる。以下、無限につづく。(このあたりまでくると、何を書いているのか判らない。それは秘数の世界だからである。)
 「四」に話をもどす。「四」には「動(三)+動(高次の一)」と「静(二)×静(高次の二)」の二つの相があった。
 ここで、「クオリア─志向性─言語─ペルソナ」を「動+動」の相でみると、クオリアと志向性から言語が立ち上がり、そうした言語誕生のプロセスそのものを内包したペルソナが立ち上がる、などと解析することができる。
 あるいはこれを「静×静」の相でみると、たとえば「実証思考─抽象思考」と「実存─本質」の二つの二項対立の重ね描きで四項を整序することができる。すなわち、「クオリア=実証+実存」「志向性=抽象+本質」「言語=実証+本質」「ペルソナ=抽象+実存」(これらの規定は、まだ「仮止め」のものにすぎない)。