クオリアとペルソナ(備忘録2)

 説明や論証や例証抜きの抽象的な議論がつづく。


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 昨日の文章の最後に出てきた「立ち上がり」(クオリアと志向性から言語が立ち上がり…)と「重ね描き」(二つの二項対立の重ね描きで四項を整序する…)、言い換えれば動的アプローチと静的アプローチによる解析・整序を通じて、たとえば神言もしくは真言としての言語(「動+動」の相のもとで)、言語としての自然科学(「静+静」の相のもとで)といった二つの言語のあり方が炙り出される。それらがともに「四」において共在する。そこからより高次の〈一〉が生まれ、「五」が生まれる。そう考えてもいい。
 しかし、「五」は所詮、秘すれば花の世界であって、より高次の〈一〉(花)はふたたび「四」のうちに繰り込まれる(内在的超越)。たとえば「ペルソナ=クオリア」の等式を成り立たせる「導管」として活用される。
 ここに出てきた「炙り出し」(C:入不二基義)や「繰り込み」も、「立ち上がり」(C:保坂和志)や「重ね描き」(C:大森荘蔵)とともに、「四」の存在と認識と実践をめぐる「推論」にかかわるキーワードである。


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 上の文章で、導管と推論を括弧書きで記したことについて。
 ここでいう「推論」は、存在の理法であり、認識の方法であり、実践の形態である。何度でも繰り返し引用するが、パースは『連続性の哲学』で、「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求しようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている」と書いている。
 導管については、ジェイン・ジェイコブズ『経済の本質 自然から学ぶ』で、生態系や都市を「エネルギーが通過していく導管」と表現している。これをもじっていえば、推論がそこを通過していく理路もしくはフィールド(伝導体、透過体、統合体、機能体、等々)が導管である。
 推論が通過する…。つまり、推論から独立した主体、推論に先立つ主体といったものはない。推論は力であり、構造である。「運動体のない運動」(メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』)としての推論?


 かねてから五つの推論というものを考えてきた。帰納[induction]、演繹[deduction]、洞察[abduction]、生産[production]、そしてそれらを包括する第五の推論、原理的には最も古いものかもしれない推論のもうひとつの導管[duct]を指し示している伝導[conduction]。
 それらの本質をめぐって駄弁を弄することには意味がない。その実存をめぐる饒舌には、たぶんきっとうんざりする。以下は、思いつくままの仮説であって、いずれも語尾に疑問符がつく。


帰納と演繹が存在の理法、洞察と生産が認識の方法、そして伝導が実践の形態にかかわる。
○「帰納─演繹─洞察─生産」は「立ち上げ─重ね描き─炙り出し─繰り込み」に関係している。
○五つの推論は「表象─模倣─解釈─記憶」の四つの作用にも関係している。
○ここでいう「表象」は物質と生命の界面で立ち上がるクオリアに、「模倣」は生命と精神が重ね描かれる界面での志向性に、「解釈」は精神と意識の界面で炙り出される言語に、「記憶」は意識と物質の界面に繰り込まれるペルソナに、それぞれかかわってくる。
○ここでいう「意識」は、古代ギリシャ的プシューケー(魂)と中世キリスト教的プネウマ(霊)、東洋的思考における「心」や「無」「空」や「霊性」等々のアマルガムである。


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 導管について記述した上の文章の丸括弧のなかで、無造作に使用した「伝導体」「透過体」「統合体」「機能体」について。
 これらはまだ未整序な概念の種子のようなもので、これまでに記録した事柄との関連性はおろか相互の関係でさえいまだ釈然としない。また、これら以外にも蒐集考案すべき「体(フィールド)」があるかもしれない(多様体とか駆動体とか散在体とか集蔵体とか)。だから、ここでは後の考察のための仮説すら提示できない。ただ、そういう話題もあったという後の検索のための付箋程度のことを記しておく。そこからなにかが発展するかもしれないし。


1.「伝導体」については、以前書いた文章のなかでとりあえずの「定義めいた規定」を考えてみた。


《伝導体とはさしあたり言語(的)構造物類似の何ものかであり、オリジナル(一回性)とコピー(複数性)、無限の論理と有限の論理、大域の法則と局所の法則、連続性と離散性、潜在性と顕在性等々の相互引用(パラレリズム的な?)にかかわるそれ自体としては空虚な触媒的メディア──私の語感に即していえば媒質的メディア――として作用しつつ、リアリティ(すなわち時空構造そのもの?)の製造や貯蔵、変換や消失=消費にかかわる演算の集合体として──あるいはヴォイスやテンスやアスペクトやモダリティといった文法学的諸概念の錯綜体として、もしくはアレクサンドリアからコンスタンティノーブルへと継承されていった文献学(魂の文献学?)的精神や写本と祈りの修道院的精神を保存し伝達する機構、というより図書館や文書庫といった物質的な場所そのものとして──自らを形成する働きであるなどと定義めいた規定を与えておきたいと思うのだけれど、それにしてもそれは概念というには曖昧にすぎる。たとえば伝導体と生命体との異同といった根本的な事柄についてさえ私には結論が出せない。ただ生物個体あるいは自己増殖・複製体もしくは自己体(そういう言葉があるとして)は伝導体とはまったく異なる種類の実在で、だから身体は半ば伝導体であるが半ばそうではないと考えているのだが、これもまたずいぶん要領を得ない朦朧とした物言いだ。》


2,「透過体」の出典は、鈴木一誌の『画面の誕生』に収められた「透過体──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』」。
 たとえば、「透過体として見られる二枚のコマは一枚に溶けあうのではなく、二枚のまま近づき遠ざかる。コマが重なり、その重なりを映像的な肉体としながら、重なりきらない滲みが運動を湧出させる」(108頁)といったかたちで言及される。一回性の体験の復活、生の複製、夢と通底するもの、生者と死者の重ね描き、歴史。


《投げだされた映画は、スクリーンによって受けとめられ、観客の網膜に映り、複数のシステムの複合であるだろう「見るしくみ」によって、観客に届く。この過程全体を映画と呼ぶならば、映画は実体としては存在しない。映画体験は、一回性を身にまとい、上映のつど誕生する。映画はつねに復活するほかない。》(『画面の誕生』98頁)


《…映画は、生きかえる運動をとおしてしか死者を描けないのかもしれない。(略)写真の静止した時間は、映画の動きによって喚起された、と言えようし、写真の静止性が、映画に動きや音声、さらに色彩をとり込ませ、「生の複製」性を高めさせたとも考えられる。(略)写真の表層は、遠さへと向かう。写真は、死者の圏域にあるメディアであるのかもしれない。写真は死者を死なしめ、映画は死者を死なしめない、これが実感に近い、写真と映画ふたつのメディアのちがいであるように思われる。
 いっぽう映画は、時間の面的な表象であるはずのコマ相互を重ね、透過し、位置の変化を読みとることで成りたつ。面と面は接近しようとし、密着した結果のたがいのずれが見られる。そのずれが視覚に運動を発生させるのだが、コマの記憶としては見る者に残らない。面であることは観客のうちに吸収されてしまう。
 生者と死者の区別がつかない点で、映画は夢と通底する。(略)夢のなかではすべてが死者なのだ、と書き手は目覚めながら言うこともできる。》(同104-105頁)


《あらたな文字を書くためにもとの文字を消した羊皮紙パランプセストや、マジック・メモの消去は、忘却のためにではなく、忘却しないための行為だ。重ね描きによってこそ、記憶は維持される。(略)他者は不在であり、不在は死者性をともなう。映画は、そのことを現在的に描くのだ。忘却の装置としてではない、重ね描きの歴史としての映画。映画の目は、いかに自身をまなざすことができるのか。》(同122-123頁)


3.「統合体」の出典は、八木誠一の神学啓蒙書。
 「互いに異なり、それゆえ相互否定的な一面を有する複数の個が、同時に相互否定媒介的にのみ成り立ち、しかも全体としてひとつのまとまりであるようなもの」(『キリスト教は信じうるか』120-121頁)。たとえば音楽。また、精神と肉体との統合体としての人格において成り立つものが「心」である。


《心は肉体からも他者からも切り離された精神のことではなく、何か純粋思惟のようなものでもない。心は対象との関係なしには成り立たない。[略]精神の本質は統一である。それに対して心の本質は統合[精神と肉体の統合、他の人格との統合:引用者註]なのである。だから厳密にいえば、心と精神は区別すべきなのである。統一を本質とする精神の働きは、本来統合を求める心の働きの一部、一面なのである。》(同148-129頁)


4.「機能体」の出典は、フェリックス・ガタリの『分裂分析的地図作成法』。
 ガタリはそこで、「リアルなものと可能的なもの」「アクチャルなものとバーチャルなもの」の二組の対概念を考え、それらを交叉させた「四つの機能体」を導き出している。すなわち実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的「テリトリー」(T:Territoires)。