クオリアとペルソナ(備忘録3)

 いくら「理論」にかかわることだとはいえ、あまりに抽象的な話ばかりで、書いていて面白くなくなってきた。これではいつまでたっても「クオリア」や「ペルソナ」にたどりつけない。そろそろ具象的、というか(抽象との対比でいえば)感覚的な事柄に即した話題に議論を移す。
 その前に、昨日の最後の文に出てきたフェリックス・ガタリの四つの機能体に関連して、もう少しだけ(抽象的で自己言及的な)記録を残しておく。


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 自分のホームページを「ガタリ+機能体」で検索すると、四つの項目がヒットしたので、順番にペーストしておく。どうせ、これ以上のことはいまの時点では考えられないだろうし。


◆私自身は、アクチュアル=エネルゲイア、ヴァーチャル=デュナミスと置き換えたり、アクチュアルで可能的なものを知覚世界での「物自体」に、ヴァーチャルで可能的なものを想起世界での「過去自体」になぞらえて考えてみたり、デイヴィッド・ドイッチュに倣って、四つの区域をドーキンスの進化論やテューリングの計算理論、ポパーの認識論やエヴェレットの多宇宙論になぞらえて考えようとしているのだが、これらはいまだ喃語の域を出ていない。


アリストテレスの『心とは何か Peri Psyches/De anima』(桑子敏雄訳,講談社学術文庫)を、懇切丁寧な訳注や適切この上ない訳者解説に導かれ繰り返し読んでいるうち、いま少し掘り下げて調べたり想像をたくましくしてみたいと思う「論点」がいくつか出てきた。
 たとえば、アリストテレスは「質料は可能態[dynamis]であり、形相は終局態[entelechia]である」とし、プシューケー(psyche:桑子訳で「心」)を「可能的に生命をもつ自然的物体[ソーマ:soma]の第一の終局態」と定義している(第二巻第一章)。桑子氏の訳注によると、エンテレケイアはエネルゲイア(energeia:桑子訳で「実現態」)とほぼ同義だというのだが、ここに出てくるエネルゲイアとデュナミスの対概念は、ラテン語の actualitas と virtus に、そして現代語の、たとえば英語では actuality と virtuality にそれぞれ対応している。
 また、アリストテレスがプシューケーの能力として掲げる栄養摂取・生殖能力、感覚能力、思惟能力、運動能力のうち、感覚と思考の間にあるものとされたファンタシア(phantasia:桑子訳で「心的表象」)はラテン語の imaginatio やドイツ語の Einbildungskraft (カント哲学の文脈で「構想力」)につながるものだろうし、デカルトが使った realitas obiectiva ともあやしげな関係がありそうに思えてくる。[*]
 そうだとすると、希羅仏独英の五つの言語が交錯する概念のポリフォニーもしくは思考的「倍音」を腑分けした結果、ファンタシアは reality と possibility の対概念に関係づけて考えることができるかもしれないし、さらに、先のエネルゲイア・デュナミスの対概念と組み合わせるならば、フェリックス・ガタリが『分裂分析的地図作成法』(訳書50頁)で示した「四つのカテゴリーの交叉行列」── actuel と virtualite'、re'el と possible の二組のカテゴリーの組合せによって四つの「機能体」の構成法則を示したもの──にもつながっていくと思う。


[*]ハイデガーの『現象学の根本問題』に準拠した木田元氏の解説によると、デカルトのこの〈realitas obiectiva〉は「スコラ哲学においてと同様、心に投影[オブイエクテレ]された事象内容、単なる表象作用のうちで思い描かれただけの事象内容、つまりある事象の本質を意味し、〈可能性〉と同義である」のに対して、ラテン語とドイツ語の違いはあれ言葉の形はそっくりな「カントの〈objective Realitat〉は、客観のうち現実化された事象内容を意味し、〈現実性〉と同義である」。《デカルトにあってカントのこの概念に対応するのは、むしろ〈realitas actualis〉の方で、これは現実化された(actu)事実内容を意味する。》(『ハイデガー存在と時間』の構築』159頁)


◆仮面は知覚世界と想起世界の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)──そして顔は、それぞれ知覚世界と想起世界の双方にまたがる現実世界と理念世界(=論理世界=可能世界?)の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)
ガタリ『分裂分析的地図作成法』の四つの機能体によって与えられる区域。──実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)。実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)。潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的「テリトリー」(T:Territoires)。潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)。
◎ここでたとえば、知覚世界:actuel、想起世界:virtualite'、現実世界:re'el、理念世界:possible、と対応させることはできるだろうか。そして、知覚世界と想起世界を媒介する仮面は時間に関係し、現実世界と理念世界を媒介する顔は空間に関係する、などということはできるだろうか。さらに、前者からは心身問題の、後者からは他者問題の「解明」の手がかりが得られる、などといえるのだろうか。
◎いまひとつの(謎めいた)思いつき。その一、顔の解析学。──力の「流れ」を堰き止めつつ解放(微分)する「門」。そして「テリトリー」(土地)を高次元で造形(積分)すると「世界」が得られる。──その二、仮面のトポロジー。「世界」と「門」をめぐるカフカ的寓意性。そして「流れ」と「テリトリー」(土地の名?)をめぐるプルースト的単数性。(あるいはジョイス的複数性やバタイユ的過剰性、等々。)
◎ところで‘Univers’すなわち宇宙とは、自らに折り返したもの(universe=unus[one]+vertere[turn])である。それこそ「虚ろな器」の造形原理ではないか!──盤にせよ碗にせよ壷にせよ、そして管にせよ、いずれも「自らに折り返したもの」なのだから。(かくして仮面的なものは「時間問題」「心身問題」に加えて「自己(意識)問題」にまでかかわっている?)
◎あるいは(ジンメルが準拠している?)ショーペンハウアーの世界の四区分に対応させること。──たとえば、表象としての世界とは知覚世界であり、意志としての世界とは想起世界である、そしてイデアとは現実世界を積分する(すなわち possible な)表象であり、物自体とは理念世界を微分する(すなわち re'el な)意志である、などということができるのだろうか。


ガタリの四つの機能体とは、実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)、実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)、潜在的(virtualite')で現実的なものの
実存的「テリトリー」(T:Territoires)、潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)のことなのですが、これでは何のことやらさっぱりわかりません。私自身は「リアルなもの=実」「可能的なもの=虚もしくは無」「アクチャルなもの=現」「バーチャルなもの=空もしくは夢[む]」と訳して、現実だとか空虚だとかの概念を導き出せないかと考えをめぐらせてはいるのですが、これもまた夢現の類でしかありませんし、だからどうなんだと自分でも思います。


     ※
 自己引用した上の文章以外にも、たとえば「世界の界面」ガタリの四つの機能体をとりあげていた。斎藤慶典著『フッサール 起源への哲学』への「書評」にも関連する記述があった(アクチュアリティ=生き生き感、リアリティ=ありあり感とか、‘intentionality’=導きといった魅力的な訳語が出てくる)。
 まだまだ探せばみつかるだろうが、きりがない。以下は、後日の作業へ向けた自己註めいた覚書。


◎「アクチュアル=エネルゲイア」「ヴァーチュアル=デュナミス」の系譜が、中世スコラ哲学における概念のアマルガムを経て、「アクチュアリティ=実存=永劫回帰」「ヴァーチュアリティ=本質=力への意志」につながっていったことは、どうやら確からしい。
◎しかし、これを「アクチュアル=知覚世界」「ヴァーチュアル=想起世界」に置き換えて考えるのは、少なくとも等号で結ぶのは間違っているような気がする。カテゴリーが違っているような気がする。(でも、エネルゲイアとデュナミスの系譜から中世スコラ哲学を経て、ベルクソンメルロ=ポンティ、そしてアフォーダンス理論へとつながる導管があるようだから、このアイデアを早々に葬り去るわけにはいかない。實川幹朗『思想史のなかの臨床心理学』参照。)
◎一昨日の「備忘録1」で、「実存/本質」と「実証思考/抽象思考」の二つの二項対立の組み合わせで「クオリア」や「ペルソナ」を整序した。この線でいくと、「実証思考/抽象思考」が「リアル/ポッシブル」に対応することになりそうだが、それも違うような気がしないでもない。


 余談を挿入。今日の冒頭、「具象的、というか(抽象との対比でいえば)感覚的」と書いた。これは、昨年の1月15日に引用した養老孟司(『無思想の発見』)の定義──感覚世界と概念世界の重なりが言葉である、言葉は「同じであって、違うものだ」、云々──を念頭においている。
 何が言いたいのかといえば、「実証思考/抽象思考」は「感覚世界/概念世界」に対応しているということ。これが「リアル/ポッシブル」に対応していれば、一昨日の記述は的を射たものになる。(的を射ているかどうかはどもかく、ガタリの四つの機能体につないでいくことはできる。つながったからどうなんだ、と問われても、答えはない。)
 余談をもう一つ。「実証思考/抽象思考」のペアも養老孟司(『日本人の身体観』)から採った。西洋における「自然科学/キリスト教神学」に相当する日本の「実証思考/抽象思考」は「歌論/仏教思想」である。このことも、昨年の1月5日に書いた。
 少し先走って書いておくと、ここに出てきた日欧精神史を関係づける四項目のうち「キリスト教神学」が「ペルソナ」に、「歌論」が「クオリア」に関係してくる。


◎「実存/本質」のペアは「現実世界/理念世界」と(言葉の響きだけ聞くと)親和的で、だとすると「リアル/ポッシブル」のペアと(同様に)親和的である。
◎そもそも「リアル/ポッシブル」は「リアル/イマジナリー」の方が響きがいい。等々。


 混乱している。混濁している。困惑している。あらゆるものを「四つの機能体」に集蔵しなければ気がすまなくなっている。考え方を修正しておく必要がある。
 「四」のなかに「四」が入れ子式に繰り込まれているのかもしれない。あるいは、「四」から「四」が立ち上がってくるのかもしれない。「四」が「四」に重ね描きされているのかもしれない。「四」から「四」が炙り出されるのかもしれない。