政権を選択することの意味──佐々木毅『政治の精神』

 先月、神戸・東京間の新幹線の中で、飯尾潤著『日本の統治構造──官僚内閣制から議院内閣制へ』(中公新書)を読んだ。いまさらと思いながら、それでも一心不乱になって読んだ。法学部系政治学、とでもいうのだろうか、歴史的・制度論的な思考の書物を読むのはずいぶん久しぶりのことで、とても懐かしく、そして新鮮だった。
 続けて、佐々木毅著『政治の精神』(岩波新書)を読んだ。かつて丸山真男、ハンナ・アレントを読んでいたときの、頭脳と情動を同時に揺さぶられる感じが甦ってきた。政治学がもつ力を再認識した。引用された文献のうち、ルバート・O・ハーシュマン『失望と参画の現象学』(佐々木毅杉田敦訳,法政大学出版局)を是非読んでおきたいと思った。


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 可能性の術としての政治。政治的統合。政治的思考。政党政治の精神。──本書にちりばめられたこれらの語彙は、単なる心理学や経済学には還元されない、(最古の学問と言ってもいい)政治学に固有の概念を指し示している。
 それらはいずれも燦然たる、もしくは惨憺たる人類の歴史の過程を通じて培われてきたものなのであって、私たちは、(昔の人がたとえば「論語」を繰り返し素読することで先哲の思想を体得していったように)、丸山真男福沢諭吉、ハンナ・アレント、ウォルター・リップマン、マックス・ヴェーバーシュムペータートクヴィルマキアヴェッリ、等々の綺羅星のごとき思想家の言説を、今ここでの現実かつ喫緊の政治的課題に照らし合わせながら読み解くことを通じてしか、これらの概念の内実をわが身に吹き入れることはできない。
 しかし政治や政治学を職とするならまだしも、繁忙を極める現代人にはそのための時間的余裕がない。その時間を節約し、来たるべき「政権選択」の時において考慮すべき論点に即し最短距離でそのエッセンスを提示するために、この書物は書かれた。
 政治権力すなわち政権をめざし、協調して行動する人々の集団を「政党」という。著者によると、その政党の最大の機能のひとつは、言動を通じた内部競争によって質の高い政治リーダーを育成することにある。日本の政党政治の実情が機能不全(リーダー不在)をきたしているとして、それは有権者のあり方と表裏一体である。無関心やシニシズムを克服し、有権者を投票場に向かわせるものは何か。
 それは、「正しく理解された自己利益」(トクヴィルが定式化した概念で、「ささやかで日常的な[市民相互の]協力関係を構築することによって人間の弱さを共同で克服することを目指す」もの)の「体験学習」を通じて、投票=選択という「公的アリーナでの活動が自分自身を変化させ、啓発するという快感」を(そして、失望を)知ることである。


《二OO八年秋以来の世界市場の大混乱は、他の先進国以上に日本に深刻な経済的スランプと社会的ストレスを生み出し、改めてこれまでの政策の貧しさと行き詰まりを浮彫りにした。……踏みなれた利益政治の道に沿って微調整を試みる政治ではなく、正しく「頭脳で行う活動」としての政治の真価が問われる歴史的段階に入ったのである。……政党は国民の自己統治のための手段であり、手段が手段としての機能を持つことが政党の存続のための条件である。その機能を果たせない政党には退場してもらうまでのことである。》


 この本書末尾に綴られた文章を読み、また著者の活動歴(「21世紀臨調」代表)を参照して、いわゆる「二大政党」の一方に肩入れしていると見るのは早計である。著者の筆鋒は日本のこれまでの政党政治の実態そのものに、そしてその現実と表裏をなす有権者のあり方にも及んでいる。