最近買った本──『〈心〉はからだの外にある』

今日もまた、読んだ本ではなくて買った本の話題。
河野哲也著『〈心〉はからだの外にある──「エコロジカルな私」の哲学』(NHKブックス)の序章「心理主義の罠」と第一章「環境と共にある〈私〉──ギブソンの知覚論から」とあとがき「心理学と探偵小説」を読んだ。
乾ききった不毛の砂に慈雨が注ぎ、濃密な時間が私のテリトリーのうちに帰還してくる。
久しぶりの熱中本になりそうな予感がする。
チェックを入れた箇所をいくつか、任意に抜き書きしておく。
(あとがきは、それ自体が一篇のすぐれたエッセイになっているので、部分的な抜き書きなどできない。)


序章から。
「本来は社会的・政治的であるはずの問題を、その人たち個人の問題へとすり替えて、問題を「個人化」することは政治的プロパガンダの典型的な手法である。」
デカルトの原理が「我思う、ゆえに我あり」ならば、生態学的立場から引き出される、それに対抗する原理は「私は死ぬ」である。」
「「障害は個性である」もミスリーディングな主張であり、そこにおいて本来希求されているものは、自分の属してきた共同体を相対化して、参加すべき社会を選択しようとする個人主義の原理である…。」


第一章から。
「エコロジカルな自己とは、環境と相互作用する身体そのものに他ならない。」
「「自分探し」とは本来、「自分」を探すことではなく、既存の環境のなかで自分が居やすい場所を見つけたり、つくり出したりすることだ。」
「私たちが知覚している世界は、人間の心(ないし、脳)が生み出した表象やイメージではなく、私たちがそれを知覚しているか否かにかかわらず、そのままの姿で実在している。(ギブソンの直接知覚論)」
ギブソンによれば、神経のなかを移動しているものがあるとすれば、それは単なるエネルギーや興奮である。「情報」「信号」「記号」「メッセージ」「命令」といった言葉に類比的なものが神経内で伝達されていくという想定はミスリーディングである。」
「知覚世界は、私たちの身体の外側に、まさしく見えているそこに存在している。」
デカルトにとって「思惟」とは、「自分で自分の声(言葉)を聞くこと」である。「考える」とは、黙読のように音量をゼロにまで絞った発話に他ならない。」
「作用(action)の本質は、求められている一定の効果を生み出すことにある。心の作用も、それだけで抽象的に存在することはできず、それが向かう対象の変化のなかに己の姿を現している。」
「計算が何であるかは、その過程ではなく、「数字を使った問題に回答を与える」という結果から定義される。したがって、計算という「心的機能」を、不可視の精神の内的な動きとして捉えてはならない。それは、ある種の道具や器具を通して、一定の結果を現実世界にもたらす実践的な行為のことである。」
「…私たちが同一の存在でありつづけているのは、世界(あるいは、環境)が同一であるからだ…。心的作用の同一性が維持されるのは、それらを支えるさまざまな内部機構が同じ対象に関わり、外部の対象に収斂するように組織化されているからである。」
「環境知覚と自己知覚はいつも同時に生じており、相補的な関係にある。自己知覚は環境についての知覚なしにはありえない。」
「知る自己の働きは環境のなかに書き込まれているのであり、透明な幽霊のような心的機能などありえない。」
「結局、デカルトが自己意識と呼んだものは、「フランス語によって自分の状態について報告できる」ということ以上ではない。」
「自分の経験だけを論じる主観主義の哲学にとっても、死は身体である他人にだけ生じる事態であり、心である自分は死ぬことがないのである。」
「これに対して、生態学的立場にとって自己とは、身体的自己のことである。したがって、私は死ぬ。私はひとつの身体である。」
デカルト的な「私」は死なない。だが、エコロジカルな私は死ぬ。」
「誰の死であろうと死そのものが邪悪なのである。」
生態学的な立場から言えば、道徳や倫理の最終的根拠は、死体への共鳴にある。」