『デカルトの密室』

瀬名秀明デカルトの密室』読了。
『BRAIN VALLEY』との比較でいうと、小説あるいは物語としては心底愉しめなかった。
作者が考え抜いて仕掛けた(であろう)謎やパズルも、自力で解いてみたいという意欲がかきたてられない。
他者の心が理解できない天才科学者フランシーヌ・オハラやクールな進化心理学者一ノ瀬玲奈といったキャラクターはけっこう魅力的だと思うが、車椅子のロボット学者兼作家の尾形祐輔やもう一人の天才真鍋浩也といった(やや生彩に欠ける)キャラクターが表にたって十全に造形されることはない。
冒険譚の主人公ともいえるAIのケンイチは、わが子のように愛おしく思えない(当たり前だが)。
登場人物に感情移入ができず、かといって、ユウスケと祐輔、レナと玲奈の場面ごとの書き分けや視点の移動、映画的手法を駆使した叙述、メタ・フィクションの企みのうちに巧みにはりめぐらされた(に違いない)ミステリーにも心底心が動かされない。
要するに作品が性に合わなかった(たぶん私の小説観・物語観が頑なであったか古くさいものであったかのいずれかなのだろう)にもかかわらず、最後まで飽きずに(それどころかしばしばクールな興奮を覚えながら)読み進められたのは、やはり題材と趣向と素材に心をそそられたからだ。
細部にちりばめられた「考察」が素晴らしかったからだ。
これはもう小説や物語を読んでの感想からはかけ離れている。
とりわけ印象に残った第三部の真鍋浩也と尾形祐輔との「対決」のシーンから、感銘をうけた箇所を抜き書きしておく。

「人間は己の視点から決して逃れられない」真鍋が言葉を継ぐ。「なぜだと思う。物語こそが自意識であるからさ。なぜ人間には意識がひとつしかないのか。無意識の状態が存在しているのに、なぜ人間はそれを自分で知覚できないのか。自意識とはいったい何だと思う。ぼくが以前から考えていたことはこうだ。つまり自意識とは、身体という筐体を介して起き上がってくる物語なんだよ。人間は自らの身体という筐体をいったん潜り抜けることで、自らの意識を認識する。自分の意識を知覚するには、いったん身体を通らなければならないんだ。だがその意識は身体という物理現象を擦り抜ける瞬間、時間という要素を取り込んでしまう。そのプロセスは否応なしに人間の意識を物語化させる。自意識は身体を通り抜けた瞬間、“物語”というひとつの塊に収束してしまうんだ、まるで波動関数の振る舞いのようにね! それが人間の宿命であり、意識のハード・プロブレムの核心に他ならない。逆にいえば物語を受け入れる視点こそが自意識であり、その物語を紡ぐ鮮やかな質感の集合こそが〈私〉という存在なんだ。ではその鮮やかさとは何だ。それはどうやって獲得されるのか。身体機能を介した体験と自らの記憶との繋がり。そこには身体という檻の間を行き来する知覚作用が不可欠だ」(430-431頁)

「ぼくたちは物語の中に入り込むと、〈私〉が切り離される」ぼくは腹に力を込めて告げた。「物語の中に描かれた自分は、自分でないような気がする。喋った言葉が一字一句同じであっても、完璧で的確な描写であっても、正確に事実を伝えていたとしても、どこかでぼくたちはそこに書かれた自分に違和感を持つ。物語に書かれれば書かれるほど、ぼくたちの〈私〉は物語から切り離されてゆく。しかしさらにその状態が続くと、そのことさえも物語に取り込まれ、いくら抗おうとしても跳ね返され、やがてぼくたちは責任を呑み込んで、それでもよいのだと思い始める。そのときぼくたちの〈私〉は物語にようやく入り込む。(略)デカルトの“われ考える、ゆえにわれあり”が意識中心主義だと一般に批判されるのなら、フランシーヌは考えたに違いない、そこからさえも抜け出さなければならないと。彼女の瞳が力を持つその瞬間を見たぼくならわかる、デカルトの意識中心主義を最後の一点まですべて排し、自らを殺したとき、彼女の私が新しい〈私〉になるのかもしれないと……」(432-433頁)

小説を書くこと(ひとつの時空と世界観を立ち上げること)、物語を紡ぐこと、あるいは物語の中に入ること、物語という密室の中に他者を取り込み閉じ込めること。
人工知能(ヒト型ロボット)をつくること、あるいは子どもを産み育てること、子どもが大人になること、子どもを世界観という密室の中に閉じ込めること。
この二つの問題系が「本当に深い意義のあるお話」(『指輪物語』のサムの言葉)の中で渾然と一つに溶け込んでいく。
物語とは、いや複数の物語(の可能性)を一つに収束させる小説とは、量子コンピュータのはたらきを夢見るための装置だったのかもしれない。
ケンイチは小説を書くことを願いつづけた。
あるいは『デカルトの密室』のうちにはケンイチが書いた小説が(尾形祐輔が書いた物語とともに)こっそりと挿入されていたのかもしれない。
最後に、この作品の最深部にしつらえられた自由意志をめぐる問題系に関連して、本書の第三部を読みながら私の脳内にしきりに浮かんでいた言葉を記録しておこう。
それはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の草稿(1917年1月10日)に綴った次の文章だ。
「自殺が許される場合は、全てが許される。何かが許されない場合には、自殺は許されない。このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺はいわば基本的な罪だからである。」