「逆翻訳」と「逆伝達」

 昨日、今日と、ジャック・デリダの『声と現象』(高橋允昭訳、理想社)に「付論」として収められた「記号学と書記学」を読んでいる。
 ジュリア・クリステヴァによる五つの質問に、デリダが寄せた詳細な回答。その第一の回答文を読んでいて、思いついたことがある。


 デリダは、ソシュール型の記号学が果たした「絶対に決定的な批判的な役割」の一つとして、シニフィエ(意味されるもの)のシニフィアン(意味するもの)からの分離不可能性の明示を挙げている。(203頁)
 ちなみに、いま一つは、記号機能における差異性と形式性の強調。言語的記号における音声的性格の非本質性の指摘。(204頁)
 しかし、シニフィエシニフィアンをただ単に同視することもできない。この区別がなければ、いかなる翻訳も不可能となる。そこでは、翻訳という概念は「変形」という概念に置き換えられなければならない。(206頁)
 ここで、私は「逆翻訳」という概念を思いついた。
 ある言語表現物を「Sa/Se」と表記する。そして、このテクストを翻訳することを、「(Sa⇒Sa’)/Se」(もしくは「(Sa/Se)⇒(Sa’/Se)」)と表記する。(ここで、翻訳の作用「⇒」を担うのは何か、または誰かという問題は素通りしておく。)
 そうすると、「逆翻訳」は、「Sa/(Se⇒Se’)」(もしくは「(Sa/Se)⇒(Sa/Se’)」)と表記できる。
 ちなみに、デリダがいう「変形」は、「(Sa⇒Sa’)/(Se⇒Se’)」(もしくは「(Sa/Se)⇒(Sa’/Se’)」)と表記できる。
 そうした記号表記はどうでもよくて、翻訳が、たとえば新しき言葉で古き心を表現することだとすれば、「逆翻訳」は、古き言葉で新しき心を詠むことに相当する。あるいは、聖書の霊的解釈。あるは、復号的読解。
 心身論的な文脈でたとえると、外見(身体)は不変のままで、中身(魂)がすっかり入れ替わってしまうこと。
 ただし、ソシュール自身は、シニフィエシニフィアンの「二面をもつ統一」を、精神と身体との関係と類似の型のものとみなすことを拒んだ。(203頁)


 デリダはまた、「伝達」という概念について、それは、シニフィエ(意味、概念)の同一性を、一つの主観から他の主観へ移行させること(送達)を暗黙裡に意味しており、シニフィエの(シニフィアンからの)分離可能性と変形不可能性、記号作用以前の諸主観の成立を前提にしたものだと書いている。(209-210頁)
 ここで、ある概念・意味がある主観の心的実在としてあることを「P/Se」と表記する。そして、デリダが批判的に図式化する伝達のプロセスを、「(P⇒P’)/Se」(もしくは「(P/Se)⇒(P’/Se)」)と表記する。(ここでも、伝達の作用「⇒」を担うのは何か、または誰かという問題は素通りする。)
 さて、ここで、「逆翻訳」と同様に「逆伝達」という概念を考案すると、それは「P/(Se⇒Se’)」(もしくは「(P/Se)⇒(P/Se’)」)と表記できる。
 同様に、「変形」に相当するものは、「(P⇒P’)/(Se⇒Se’)」(もしくは「(P/Se)⇒(P’/Se’)」)と表記できる。
 ここでも、そうした記号表記はどうでもよくて、伝達が、新しき主観のうちに古き概念・意味が宿ることだとすれば、「逆伝達」は、古き主観のうちに新しき概念・意味が吹き込まれることを意味する。


 逆翻訳にせよ、逆伝達にせよ、言葉の用い方が適切かどうかは吟味が必要だと思うが、どちらも、世界の外形的・客観的・質量的なあり方は少しも変らないのに、その実質が根本から更新されているような事態を指し示している。
 それは途方もなくすごいことのようだけれども、卑近な例でいうと、かつて読んだことのある書物(たとえば『声と現象』)を再び読んで、かつて理解した(と思っていた)ことが根本的に覆されて、しかし、その新たな理解は、かつて理解した(と思っていた)ことを表現したのと同じ言葉でしか表現できない、といった事態を指している。