デカルト的自己(2)

河野氏が『〈心〉はからだの外にある』の第一章で引用していた「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」は、六日間におよぶ『省察』の二日目、「第二省察」に出てくる。
省察のこの段階にいる「私」は、感覚も身体ももたず、世界にはまったく何もないと想定している。
しかし、感覚も身体ももたない「私」や、まったく何もない世界を(経験可能なものとして)想定することなど、ほんとうはできない。
それはいったいどのような「私」であり、世界であるというのか。
省察のこの段階にいる「私」は、つまり感覚も身体ももたず世界にはまったく何もないと想定している「私」は、実は身体と感覚にしっかり結びついていて、世界には天や地や精神や物体が満ちていることを知っている(経験している)。
少なくとも実生活のうえでは、そのようなものとして「私」や世界をとらえる「生の習慣」のうちにあることを自覚している(そうでないと、生きていくための行為がなにもできない)。
しかし同時に、認識(真理の観想)の局面において、それらがけっして疑いえないわけではないことを知っている。
たしかに「私」は感覚と身体をもっている(ついでにいえば、記憶をもち、言葉を知っている)。
天や地や精神や物体に満ちたものとして世界を経験している。
そして同時に、そのような感覚や経験が、明らかに偽であるとはいえないまでも、まったく確実で疑いえないわけではないことを知っている。
省察という名の思考実験を通じて、身体と感覚に結びついた「私」や天地、精神、物体に満ちた世界の確実性を疑うことができる。


こうしてデカルトは、一日目の省察(「疑いをさしはさみうるものについて」)で四段階の思考実験(懐疑)を試みた。
第一。われわれは感覚によって欺かれているのではないか。
しかし、たとえ感覚から汲まれたものであっても、「いま私がここにいること」や「この手そのもの、そしてこの身体全体が私のものであること」等々はまったく疑うことができない(ように思われる)。
第二。われわれは夢を見ているのではないか。
目覚めと眠りとを区別することができる確かな標識がない以上、「いま私がここにいること」等々は夢のなかの出来事なのかもしれない。
しかし、われわれの意識のうちにあるものの像が真であるにせよ偽であるにせよ、少なくともそれを構成している色はたしかに真なるものでなければならない(これはどういう意味?)。
それと同様に、たとえわれわれが夢の中にあっても、二たす三は五であり、四角形は四つ以上の辺をもたないといった、確実で疑いえない単純で普遍的なものがある(ように思われる)。
第三。私は万能の神によって欺かれているのではないか。
二と三とを加えるたびに、四角形の辺を数えるたびに、この神は私が誤るように仕向けたかもしれない。
すべてをなしうる神なら、それくらいのことはできる。
たとえ、そのような「常に誤りうる私」を創造することは神の善性に矛盾するのではないか、といった「真理の源泉である最善の神」に関するこれまでの「古い意見」がすべて虚構のものであったとしても、つまりまぎれもなく私が常に誤りうるもの(真なるものを認識する能力をもっていないもの)であったとしても、それでも「信じやすい私の心」にしたがって行為する「生の習慣」そのものは揺るがない。
(このあたりの「要約」はきわめて怪しい。)
第四。私は最高の力と狡知をもった悪霊に欺かれているのではないか。
外界のすべては夢のだましにほかならず、それによって悪霊は「信じやすい私の心」に罠をかけているのかもしれない。
私は身体と感覚を、誤ってもっているのかもしれない。
そうだとしたら、私は「生の習慣」のなかで「想像上の自由」を楽しんでいるにすぎなかったのだ。
「かくしてこれからは、光のなかではなく、いましがた提起されたさまざまな困難の、解きがたい暗闇のなかで暮らさねばならない」。
「あたかも渦巻く深みにいきなり引きこまれたかのように、私は気が動転し、底に足をつけることも、水面に浮かびあがることもできないありさまである」。


二日目の省察で、デカルトはさらに歩みを続ける。
以下、「「私はある、私は存在する」というこの命題は…」が出てくる箇所を、新訳(ちくま学芸文庫)から丸ごと抜き書きしておく。


《それゆえ私は、私が見ているものはすべて偽であると想定しよう。あてにならない記憶が表象するものはどれも、何も存在しなかったと信じることにしよう。物体、形、延長、運動、場所は幻想だとしよう。それでは何が真なるものか? おそらく確実なものは何もないという、このことだけであろう。しかし私は、いましがた私が吟味したすべてのものとは別のもので、それについてわずかでも疑いの余地を残さないものはないということを、どこから知るのであるか? 何か神というものがいて、あるいはそれをどのような名で呼んでもよいが、それが私にそういう考えを注ぎ込んでいるのであろうか? しかしなぜ私はそう思うのか? おそらく私自身がそういう考えの作者でありうるのに。それならば、少なくとも私は何ものかであるのではないのか? しかし私はすでに、私が何らかの感覚や、何らかの身体をもつことを否定したのである。それでも私はためらう。それではどういうことになるのか? 私は身体と感覚にしっかりと結びついていて、それらなしでは在りえないほどではないのか? だが私は、世界にはまったく何もなく、天も地も精神も物体もないと、自分に説得した。それゆえ私もまた存在しない、と説得したのではなかったか? いや、そうではない。私が自分に何かを説得したのなら、たしかに私は存在したのである。しかし、何か最高に有能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫をこらしている。それでも、かれが私を欺くなら、疑いもなく私もまた存在するのである。できるかぎり私を欺くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは、私を何ものでもないようにすることは、けっしてできないだろう。それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する」 Ego sum, ego existo という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。》(44-45頁)


ここに出てくる「推論」は、「この神[万能の神]は、いかなる地も、天も、延長するものも、形も、大きさも、場所もまったくないのだが、しかし私には、これらすべてがいま見えているとおりに存在していると思われる、というふうにした[そのようなものとして世界と私を創造した]かも知れない」といった種類のものとはまるで違う。
また、ここで「私は在る、私は存在する」といわれている「私」は、いわゆる「デカルト的な自己」のことではない。