デカルト的自己(3)

前回、「第二省察」の前半に出てくる「私は在る、私は存在する」という命題のなかの「私」はいわゆる「デカルト的自己」のことではない、と書いた。
少なくとも、省察のこの段階でその存在が見出された「私」は、河野哲也さんが『〈心〉はからだの外にある』で、ギブソン由来の「エコロジカルな私」(徹底的に身体的な存在=死ぬ私)と対比させて書いている「自己意識」(自分で自分の声を聞く純粋思惟の作用)のことではない。
ここまで書いて、筆がとまってしまった。それから先に書こうと思っていたことが、昔読んだ永井均さんの本の焼き直しにすぎないことがわかっていたし、もしかすると、これも昔読んだきりすっかり忘れていた小泉義之さんの『デカルト=哲学のすすめ』や斎藤慶典さんの『デカルト──「われ思う」のは誰か』からの受売りなのではないかと、ふと疑念にとらわれたからだ。
ここ数日は、これらのことを検証し確認するためのしばしの中断のはずだったのだが、とりとめもなく怠惰に時間を費やしてしまい、とうとう「そもそも私は何を問題にし、何を考え、何を書こうとしていたのだったか」を忘れてしまった。
デカルトの六日間が、神の天地創造にも匹敵する思考のドラマであったのに比べると、ずいぶん薄っぺらい時間がさらさらと砂のように流れていったものだ。


いま、おぼろげに頭のなかに浮き沈みする思惟の断片、残骸を拾い集めて列挙してみる。
「私は在る、私は存在する」の「私」は、デカルト個人のことではない。
ましてデカルトの自己意識のことではない(もちろん、いまこの文章を書いている私の自己意識のことでもない)。
それは、そこにおいて神との接触すら生じうる(実際、第三省察の後半で、「私」の存在とその「保存」の原因として神の存在が証明される)、なにか名状しがたい存在感覚をもたらす「死者」のようなものである。
そのような「死者」との対話(沈黙交易あるいは祈り)の可能性を論証することが、心身合一を説くデカルト哲学の真髄である。
デカルトの第二省察は「死にゆく者の独我論」であるとは小泉氏の指摘。
また、対話とは「死んだあなた」と「死んだ私」の間に交わされるもので、「死んだもの」が再び、いやはじめて姿を現わすこと(主題の復活)でもって対話の空間は開かれるのだ、とは斎藤氏の指摘。


──結局のところ、何をどう論じたかったのか、自分でもよくわからなくなった。
瓢箪から駒のようにして読み始めたデカルトだが、途方もなく甚深微妙な思考世界にいきあたったようだ(「ベルクソンデカルト」という、どこでどうつながるのかよくわからない水脈まで「発見」した)。


「私は在る、私は存在する。これは確かである、ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。」(第二省察,47頁)。

「できるものならだれでも私を欺いてみよ、しかし私が何ものかであると考えている間は、私を無であるようにすることはできないだろう。あるいは私が存在することはいまや真であるからには、私が存在しなかったということを、いつか真にすることはできないだろう。」(第三省察,60-61頁)