『三位一体モデル』

堀田善衛の『定家明月記私抄』正続二篇を買い求めたちょうど同じ日に、中沢新一『三位一体モデル TRINITY』(ほぼ日ブックス)を購入した。
中沢新一聖霊論、三位一体論は『東方的』(1991)や『はじまりのレーニン』(1994)あたりからその姿を世にあらわし、『緑の資本論』(2002)やカイエ・ソバージュ・シリーズ第3巻『愛と経済のロゴス』(2003)で頂点を極めた、あるいは(経済や性愛といった)新機軸を導入し新たな次元に突入したものと承知している。
使い手、使いようによっては途方もない汎用性と深みと実践性をもった思考モデルとして、画期的な可能性をもつものであると理解している。
その中沢版三位一体論の入り口部分を、中沢自身が聴衆の前で語ったままに活字化し、30分で読めちゃえて持ち歩けるハンディでコンパクトなライブ思想書にして使えるビジネス書にしたてたのが「ほぼ日」の糸井重里
「おもしろかったわ! この薄さがありがたいね。30分で読めちゃうものね。」と帯の惹句を寄せているのがタモリ
なんだか前世紀の遺物、かつてニュー・アカとか言われた時代を髣髴させる底の浅いコンセプトだなあ、とか、いかにもTV的なお手軽さだなあ、とか、クオリアに続いて三位一体もコマーシャリズムの餌食になったか、とか、いろいろなことが気になったけれど、挿画(赤瀬川原平)と装丁、写真、図版の配置や活字の大きさ、等々の本の造りが気に入ったので速攻で買って30分かけて読んでみて「いいんじゃないの、これ」と思った。
父と子と聖霊の三つの円の関係がポロメオの輪をなすことや、東方と西方のキリスト教会の分裂をもたらした三位一体の解釈をめぐるフィリオクエ論争のこと、ラカン現実界想像界象徴界との関係を踏まえた三つの項の相互関係など、三位一体モデルの理論面でのキモにあたる話題はいっさい省かれている。
またたとえば、ホモ・サピエンスの脳にあふれる「増殖力=聖霊」とこれをコントロールする「幻想力=子」と「社会的な法=父」の三つの原理が「人類に普遍的な思考模型」であるとして、では聖霊の増殖力や「神の子」を唯一神のなかに認めないイスラム教はその例外をなすのかといったあたりのことなど、中沢新一も最後に書いているようにかなり説明不足の部分がある。
でも、そういった理論的な細部にこだわらない荒削りで大胆なところ、読者の想像力、というか思考力に委ねた大雑把で穴だらけの叙述は、それこそ30分で読めちゃう「ライブ感」にあふれていて、かえって読者にひらかれている。
あ、この話はもっとしっかりと書かれたコクのある文章で読んでいて、だからもうとうに知っている。
そんな風に思ってしまう読者(この本を読み始めたときの私のような)には、この本のよさはたぶんきっとわからない。
帯の惹句はこう続いている。「「タモリ」ってものの「三位一体」の図を、考えたんだよ。みんな、やるんだろうね、そういうことを。」
こういうノリが大切なんだろうなと思う。
実際に手と頭を使って三位一体の図を作ってみること。
この本をもとにした「三位一体ゲーム」のような思考援助のツールだって、そのうち商品化されるかもしれない。
そうして99・9999%のゴミみたいな図の堆積のなかから、いつか奇跡のような未発の思考のかたちが立ち上がってくるかもしれない。
これだけはやってみなければわからないではないか。
(実は私も、自分専用の三位一体の図を考えてみた。「デカルトベルクソン」と「歌論=ギリシャ悲劇」と「金融=貨幣」の三つ組。このことは、気が向いたらそのうち書くつもり。)