2006-01-01から1年間の記事一覧

マテリアルとスピリチュアリティ──鎌田東二『霊的人間』(1)

郡司ペギオ−幸夫は『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』で、「痛み」は「傷み」であると書いている。 郡司氏の精密な議論を荒々しく要約してしまうと、次のようになる。 痛みは「プログラム」(わたしというシステム)によって計算される「デー…

目を開いたまま夢を見る場所──加藤幹郎『映画館と観客の文化史』

「本書は日本語で書かれた初めての包括的な映画館(観客)論となる」(292頁)。著者はあとがきにそう書いている。 それでは、なぜこのような書物が書かれなければならなかったのか。 「映画はそれ自体としては存在しえない」(27頁)からである。「理論的予…

『記憶と生』(第4回)

週に一度、時間にしてほぼ1時間程度、ベルクソンの『記憶と生』を熟読する。 二ヶ月あまりの中断を経て、その習慣が甦ってきた。 レヴィ=ストロースの『神話論理』とヒッチコック/トリュフォーの『定本 映画術』を夜ごと眺めては、ベルクソンの読書体験へ…

「耳と心」でたどる日本宗教芸能史──山折哲雄『「歌」の精神史』

「歌」とは身もだえする語りである。 「ひとり」をめぐる感受性と情調の千年におよぶ歴史のうちに育まれた伝統的な「叙情という名の魂のリズム」(41頁)である。 「ひとり」とは外来語としての「個」に対応するひびきをもつ大和言葉で(121-122頁)、「魂鎮…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(7)

そろそろ「決着」をつけておこう。 日々だらしなく書物を読み齧り読み流すなかで、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』だけは例外的にふやけきった私の脳髄に刺激を与えてくれた。 そこからこの「連載」は始まったのだが、肝心の『私家版・ユダヤ文化論』から…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(6)

前回、郡司−ペギオ−幸夫著『生きていることの科学』に登場する「マテリアル」の概念に関して、その同義語として「物自体」という(カント由来の)語彙を使った。 郡司氏自身も「モノそれ自体」という言い方で、単なる素材性を超えたマテリアルの特質を説明し…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(5)

余談をもう一つ。 郡司−ペギオ−幸夫著『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)を読んでいて、原理的(というより理路的)には『私家版・ユダヤ文化論』と同じ事柄が論じられているのではないかと思った。 私のいつもの悪い癖で…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(4)

余談を一つ。 内田樹・養老孟司の対談「ユダヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」(後編)が掲載された『考える人』(2006年夏号)は、「戦後日本の「考える人」100人100冊」を特集している。 そこに大森荘蔵の『新視角新論』がとりあげられていた。 …

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(3)

内田流ユダヤ文化論の養老流唯脳論による読解その二は、「始原の遅れ」(意識のズレ)を視角と聴覚のズレに置き換えること。 対談から該当部分を抜き書きする。 養老「視角というのは、時間を表現するするものを捉えられません。写真を考えたら、そこに時間…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(2)

実は『私家版・ユダヤ文化論』が刊行される前に、著者と養老孟司の対談を読んでいた。 季刊誌『考える人』(2006年夏号)に掲載された「ユダヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」の後編。 内田流ユダヤ文化論を養老氏が「唯脳論」にひきつけて読解していく…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(1)

前回(7月29日)の「最近の読書事情」で、日々だらしなく読み齧り読み流すばかりで定着するものがなにもないと書いた。 それは厳然たる真実なのだが(ほとんど下痢状態なのだが)、そうしたなかでも若干の例外はある。 内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』は…

最近の読書事情

ブログを書かなくなって一月が過ぎた。 湿気がひどくて暑くてなにも書く気がしないし、そもそもろくに本を読んでいないものだから、書く材料がない。 この間に買った本はざっとながめて20冊はくだらないけれど、読み齧りばかりで、まともに読み終えた本と…

月と蛙

W杯がはじまるともういけない。 毎晩やっていることといえば、食事の用意・後かたづけとサッカー観戦だけ(入浴もする)。 新聞はW杯関連記事を再読・三読・未読し、サッカー関連の雑誌を繰り返し眺めている。 本など悠長に読んでいる暇がない。というか、…

職人技と抽象力

中世の職人歌合に、学者と芸者が並べて描かれているのを宗教学を学ぶ甥に見せて、網野善彦がこう語った。 「ほうら、学者も芸者みたいに、正確にものごとを認識したり、表現したりできないとだめなんだぞ。芸者は正確に芸ができなくっちゃあいけない。天皇だ…

悪という力

昨日書いたこととの関連で、網野善彦著『日本中世に何が起きたか』(1997年)をとりあげる。 巻末の「あとがきにかえて 宗教と経済活動の関係」で網野氏は、かつて『無縁・公界・楽』(1978年)の「まえがき」に書いたことを述懐されている。 高校教師をして…

ファスト風土は現代の無縁の空間である

三浦展編著の『脱ファスト風土宣言』を読みながら、「ファスト風土」は現代の「無縁」(網野善彦)の空間ではないかということを考えている。 それは、柄谷行人の『世界共和国へ』を読んでいて、官僚制組織こそが、いいかえれば「個人として責任をとらない『…

三浦語録

三浦展氏の「「街育」のすすめ」(『脱ファスト風土宣言』序章)から、ぐっときたフレーズをもう少し拾っておく。 ほとんど各頁から一つ、だらしない抜き書きになる。この人の「思想」は、どこか深いところへ届いている。 ◎「…流動性と匿名性は都市だけの特…

「「街育」のすすめ」

三浦展編著の『脱ファスト風土宣言──商店街を救え!』を継続的に読んでいる。 私の神戸の居宅の近所で「ガーデンシティ舞多聞」というプロジェクトが進んでいる。 面白そうなので、「老後の住まい」の候補に資料を取り寄せてみた。 この事業にかかわっている…

『東京タワー』と『杯』

◎リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社) 《人の一生のうちでただ一度だけ起こること》 だれでも一生に一冊、小説が書けるという。笑いや涙、感動や共感を誘う小説。誘わなくとも、読者の心の奥深いところ、情動にはたら…

ヒッチコック語録──『記憶と生』(第3回・補遺)

昨日書いたことの補遺。 ベルクソンが「持続の本性」をめぐって、次のように書いていた。 原稿書きに熱中して、ふと気がつくと五つ目の鐘が鳴っていた。 この状況に対して注意深い自問を加えてみると、たしかにすでに鳴った四つの鐘の音は私(ベルクソン)の…

『記憶と生』(第3回)

あいかわらず「持続の本姓」に収録された五節分の文章の周辺をうろついている。 前田英樹さんが「訳者まえがき」に、「ひとつの節ごとを、節と節との繋がりを、ごくゆっくりと読んでもらいたい。そうすれば、ドゥルーズの考案したタイトルの総体が、いかに驚…

「私的言語」に関する覚え書き(補遺)

昨日書いた「のおもいつき」のネタを二つ、後日の噴飯(最後の噴飯)の日のために記録しておく。 その1は、柄谷行人著『世界共和国へ』の「普遍宗教」をあつかった箇所に出てくる。 ここで、私が考えたいのは、宗教史や宗教社会学において語られてきた問題…

「私的言語」に関する覚え書き

昨日書いたことの補足。 入不二基義さんの『ウィトゲンシュタイン』で、第三章の私的言語をめぐる議論についていけなかったことについて。 要するに、「私的言語」とは何かが腑に落ちていないのだと思う。 『哲学探究』をちゃんと読めば判るのかもしれない。…

『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』

序章に『維摩経』第八章、入不二法門品の話題が出てくる。 「さとりの境地(不二の法門)に入るとはいかなることか」。 維摩が発したこの問いをめぐって、三十一人の修行者(菩薩)と文殊師利(マンジュシリー)がそれぞれの自説を展開していく。 いわく、生…

『はじめの哲学』

金森修さんが『ベルクソン』のあとがきに、「僕にとって、哲学書を読むというのは、ある種の生まれ変わり、ある種の若返りを体験することなのだろう」と書いている。 生まれ変わりを体験するとは、いったいどういう体験をすることなのだろう。想像を絶する。…

『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』

金森修さんの『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』はずいぶん前に読んだ。 端正な文章で叙述されたベルクソンの「常識離れ」した思考の急所、とくに「重々しい晦渋さ」(76頁)に覆われた『物質と記憶』での「途方もない」(88頁)議論のいくつかを、…

『記憶と生』(第2回)

今日は手元に『記憶と生』がないので、先週読んだ「持続の本性」の周辺の話題を、別のテキストから拾っておく。 別のテキストというのは、金森修さんの『ベルクソン』。 ここで拾っておきたいのは、「純粋持続を探せ」の章名をもつ第一章の後半に出てくる「…

「写真は、映画によってみずからの静止性を発明した」

このところ毎晩のようにヒッチコックの映画を観ている。 なるべく安いDVDの新品を探して、全部で53ある長篇作品をひととおり揃えようと、これまで少しずつ買いためてきたものを順不同で観ている。 いま現在、25のタイトルが手元にある。 一番安く買っ…

思考を対象化すること

レヴィ=ストロース『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』の「序曲Ⅰ」を読んだ。 序章でも序文でも(序でに書かれた)たんなる序でもない。 いかにも序曲と名づけるのがふさわしい、湿気をたっぷりとふくんだ濃密な霧がたちこめた文体。 モーツアルトとい…

宗教・経済・科学・芸術(続々)

『日本中世に何が起きたか』に、網野善彦・廣末保の対談「市の思想」が収録されている。 そこで、廣末氏が「市というものは宗教的問題もあるし、交易の問題もあるし、芸能の問題もある」と語っている。 近世になると、歴史のことはよくわかりませんけれども…